金曜日, 1月 05, 2007
ローマ人の物語 (2) — ローマは一日にして成らず(下)
王政を廃し、共和政に移ったローマ、時は紀元前450年付近
ペリクレスを中心に栄えていたアテネの民主政を学びにいくローマの元老院議員3人
(絶頂期にあるアテネを視察してもその模倣にはつとめなかった)
農牧民族であるローマ人は変革を本能的に嫌い、改革がやむを得なくなっても
ゆっくりと進め、いったんかいかくするとめったなことでは改めない。
ギリシアに比べると発展の速度は遅かったが衰退も遅らせることができた。
ローマ人は自分達に合った体制にこだわったためと筆者は分析。
また、この後のローマの事件を説明するに重要な文化である
クリエンテス
パトローネス
また、今後の展開で重要な地位
執政官(コンスル)
前執政官(プロコンスル)
独裁官(ディクタトール)
法務官(プラエトル):ローマは歴史に類を見ない法治国家
会計検査官(クワエストル)
財務官(ケンソル)
安さつ官(エディリス)
護民官
元老院
の説明、
そして何より重要な、他民族とも"同化"していく
"ローマというシステム"について説明をする。
また、"ローマというシステム"を説明するに欠かせない、"街道""上下水道"の
始祖であるアッピアについての説明がされる。
筆者はローマ時代の超人を挙げるとしたら、ユリウスカエサルは当然として
もうひとりこのアッピウスクラウディウスを挙げる。
街道を作るとは、"敵から攻め込まれやすく"なることを意味する。
が、ローマはそれを行った。そのリスクよりも、市民が便利であること、情報
が早く伝達すること、商業が発達すること、それに伴い開発され(ローマ化され)
パクスロマーナされていく。
アッピウスは老いてからも盛んだった。
マグナグレキア、ギリシアのピュロスに侵略され不利な講話条件を突きつけ
られていた元老院に対して、「ピュロスがイタリアを去ることが講話の前提
条件であり、われわれの家の庭に踏み込んで居座っている敵は、講話であろ
うが何であろうが交渉の相手にはなりえない」と叱りつける。
紀元前753年に建国されたローマ、紀元前270年にイタリア半島の統一を完成。
知力ではギリシャ人に劣り、体力ではケルト(ガリア)やゲルマン人に劣り、
技術力ではエトルリア人に劣り、経済力ではカルタゴ人に劣っていたローマ人
が、これらの民族に優れていた点は何よりも彼らのもつ開放的な性向にあった。
といわしめるほどのローマの開放性、ローマというシステムは次へと続く。