金曜日, 12月 30, 2011

坂の上の雲〈1〉



以前読んだものの
どうせいつかは処分するし、大河ドラマで話題なうちに処分しちゃえ
という無粋な思惑によりもう一度読む

伊予の国出身で、日本の近代陸軍騎馬隊の基礎を作った秋山好古
同じく海軍の参謀として日露戦争にあたった秋山真之
同じく日本の俳句や短歌を見直しあたらしい風をふきこんだ正岡子規
の3人を主な主人公とした司馬さんの長編大作

一巻では秋山好古の以下の発言や言動をメモしておきたい
日頃から心がけていること、できるだけ自分自身の身の回りをシンプルにしておかなければいけない

男子は生涯一事をなせば足る
目標のためにかれの生活があるといってよく、自然、その生活は単純明快
身辺は単純明快でいい
男にとって必要なのは、「若いころにはなにをしようかということであり、老いては何をしたかということである」
というこのたったひとことだけを人生の目的としていた

まだ序盤なので
★★★

水曜日, 12月 28, 2011

おりこうさん おばかさんのお金の使い方



社長失格の板倉さんのお金感に関する著
内容は、お金に関して論理的に 考えられている人にとってはしごく当たり前の内容
そうでない人は一読の価値ありかも

例えば

量販店のポイントカードは貯めないでできるだけゼロに近づけておく
=>ポイントを貯めるとは現金を支払って、その店でしか使えないポイントを購入する行為だから
そのため、店員は「貯めますか?」と聞いてくる

所有か賃貸か
=>店舗はおろか本社ビルさえすべて賃貸ビルのイトーヨーカドーに対し、ダイエーは徹底的に店舗とその土地を購入し自社所有にし続けた
家でも車でも所有欲を満たすことが目的なのでなければ、また明確に「価値>>>価格」という状態でなければ賃貸で
ダイエーとイトーヨーカドーという二社のみ、また典型的な時代のサンプルでの結論は難しいが、とてもわかりやすいサンプル

会社は誰のものか、というよくある問いに対しても
会社はモノではなく仕組みだ
と言い、
FCFは投資家のもの
株主総会の議決権は株主のもの
と、個々には言えるが、従業員は誰のもの、という答えに解はない、と書く

板倉さんの書なので期待しましたが、内容は普通ですね。
★★★

月曜日, 12月 26, 2011

現場で使えるSQL 第2版 (DB Magazine SELECTION)

現場で使えるSQL 第2版
現場で使えるSQL 第2版
小野 哲

部屋の本棚にあったためこちらも整理のためにざっと読む
内容としては普通の入門本でしょうか
ただWeb系でいえば、メインではMySQL一択だと思われるのでOracleやSQLServerで書いてあるのは残念
将来のためにこれをとっておくぐらいならMySQLの方言をWebで調べるほうが早いなぁ、という感じ

★★★

金曜日, 12月 23, 2011

あなたの会社が90日で儲かる!(感情マーケティングでお客をつかむ)



あら、いやだ
本日12/23はアテクシの誕生日だ
もうこの歳になってしまうと、というかどの歳でも特にめでたくもない
なーんて思う私はやはり昔から冷めてるんでしょうね。。

最近はネット系の技術者からマーケや企画および財務方面に本格的に転職中
神田さんの本は以前2~3冊読んだことがあるものの
ま、読み物としてはおおしろいんでねーの?
ぐらいだったのでそれ以来積極的には手に取らずにいた。
読んだ本が成功者の告白お金と正義だったのでちょっと物語寄り過ぎて読んだ気になっちゃってたかも

友人に勧められたため、以前から評価が高く気になっていた本書を手に取る

あたりまえのことしか書いていないもののこれは良著
★★★★★
あたりまえのことが書いてあるから参考にならないとか読んだ気になるのはよくないので一度さっと読んでからもう一度読みました

マーケティングとは科学である
エモーショナルマーケティングを実践すると、あなたがお客さんを探すのではなく、お客さんがあなたを探すようになる

ほとんどの会社が人間の感情を考えずにビジネスをしている
人間は理性で買うのではない
感情で「買いたい!」と思い、その後に理性で理由付けを行う

商品のライフサイクルによって顧客の反応率/獲得コストは変わってくる
石の上にも三年、は石器時代の話。三ヶ月懸命にやって伸びなければ三年やっても一緒

DMやチラシの反応率1~3%など、石器時代のような数字でビジネスをしてはいけない
安売りはバカに任せておけばいい、安くすると割引以外に売る工夫をしなくなる
安売りはバカでもできるから、必ずあなたの価格を下回るバカが出てくる

お客は
購入しようとする商品、サービスの価値 > 支払う金額
と感じたときに購買決定する。
つまりモノを売る方法は
1. 値引き => すでにNGが証明されている
2. 商品、サービスの価値を高める => 価値には

水曜日, 12月 21, 2011

「好き」を仕事にする! AllAbout式年収100万円アップ術



AllAboutはメディアとして見せ方がうまいので
AllAbout式書き方の技術
という内容に惹かれ手に取る

ターゲットを絞る
絞らないと、どこにでもある内容になってしまう

◯期待感を盛り上げる
・冒頭で自分の言葉で内容をサマる
・ポイントごとに小見出しをつける
・結論を先に言わない
・ランキング1位は最後に発表
・改ページの際は、「次のページではあっと驚く〇〇が登場します!」のように。次へは使わない

しつこいくらいにターゲットのことを考える
・企画内容をざっくり言葉に落とす
・この企画のターゲットは誰か具体的にイメージしてみる
・ターゲットの気分になりきってみる
・ターゲット気分で思いついた言葉やフレーズを書きだす
・言葉を練る
・もう一度、ターゲットからそれていないか考える
・インターネットの中でこのタイトルに出会ったとき、ターゲットがクリックしたくなるか考える

◯読ませるタイトル
・共感、こういう情報が欲しかった、ちょうど今気になってた、というタイトル
焼肉を食べても太らない方法
とりあえず定期預金、の落とし穴
・流行言葉、ニュースのキーワード
格差婚のためのプロポーズ成功法
・特別感、限定感
12月に食べた73杯から6杯のラーメンを厳選
・和也網羅性で誘惑
まだ間にあう!夏休みイベント83連発
・平凡な内容は言葉で遊ぶ
食べてやせる人 vs 食べないでやせる人
・刺激する
おみくじ、、その勘違いが運を逃します
など、似合わない、勘違い、非常識、のような刺激する言葉
・意外性
平均貯蓄額1624万円、貯蓄ゼロが2割って本当?
やばい!本当?ん?という意外性

電車の中で広告を見て
・ターゲットは誰か?年齢、職業、趣味
・自分だったらどんなタイトルにするか
・自分のサイトのユーザがターゲットだったらこの企画にどんなタイトルをつけるか
など、トレーニングが出来る

◯キレイな写真を撮る基本
・光をうまく利用
・手ぶれ防止のためにカメラを固定
・アングルにこだわる
・背景で雰囲気を出す
・レフ板を使いこなす
・マクロモードを使う
・フラッシュに頼らない

月曜日, 12月 19, 2011

ネット広告ハンドブック 最新知識から出稿の実務、効果測定、技術動向まで



amazonで評価が高いから購入してみたけどこれはオススメしない。

本書でターゲットがどうとか言ってるんだけど、この本のターゲットはどこなんだろう。
ある程度ネット界にいる人なら技術者あがり自分でも知ってる内容ばかり。
新人だとそもそもつまんないで読まなそうな気がする。
一応全部読みましたがかなり速読という名の読み飛ばしでした。

金曜日, 12月 16, 2011

胡蝶の夢〈4〉



徳川が西軍に攻められ、昔長崎で一緒に学んだ仲間と従軍医としてではあるものの対立する松本良順
武士は鎌倉風でいい、と食録の恩を返す単純な主従関係で充分と考えていた松本良順は医師でありながら武士
新政府軍に捉えられ、その後解放された開業医として活動したのが早稲田とかのあたりとのこと
もしかして、長崎をなつかしんだ松本良順たちが少しずれるけど東長崎と地名したのかと調べたけど
長崎(豊島区)
それよりもだいぶ前からだった模様。。

残念だけどあまり私には合わず、、かなり読んだ司馬さんの作品の中ではかなり面白くなかった作品です。。

★★

水曜日, 12月 14, 2011

胡蝶の夢〈第3巻〉



前巻に続き、引き続きあまりおもしろくない。。

ようやく後半の方になり物語に動きが出はじめて面白くなってくる

ポンペが帰国したため長崎から江戸に呼び戻され将軍家を見る将軍侍医となる。

医者、絵師、技師法外の人ということで身分の外に置かれた。
たとえば将軍侍医などは将軍家の体に触れるため身分が高くなければならず、結果権力はもたないものの大名と同程度の位とされた。

また、この当時は、将軍侍医と言えど、西洋の学問をしているとなると問答無用で切る攘夷家が多いため松本良順も危険だった。
そんな時、松本良順宅に近藤勇が訪ねてくる。
松本良順は順天堂を起こした実父佐藤泰然の影響もありもともと武士っぽい性格を持っていた。
話をしてみて内容次第では切るつもりでやってきた近藤勇は松本良順と意気投合してしまい、2~3歳年長の松本良順を兄として義兄弟の契りを交わすまでになった。
もともと新撰組であることに劣等感をどこかに抱いていた近藤勇は
自分も境遇が違えば新撰組であったかもしれない
という松本良順の酔った席での言葉に感動し、また、新撰組の体調不良者を全員診察する、という行動に対して近藤勇は平伏しますます新選組と絆を強くしていく。

また、将軍家茂の臨終間際の話。
家茂は人の上に立つには充分な人柄と、有能ではないために悲痛なほどの責任感とそれによる苦悩を持っていた。
しばしば
自分は非常の時代に将軍になるような器ではない。一橋どのと代わりたい
と漏らしていた。

病床では医者、この場合は松本良順だけが友であり頼りだった。
松本がそばにいることで安心し、そのため松本はそばで何日も寝ることが出来ず極限まで来ていた。
座ったまま眠ってしまいよだれを流していたところを
松本、松本
と呼ばれた。起きてはっと家茂の口もとに耳を近づけると
そちは居眠りの名人だ
と大事でも打ち明けるようにいい、微笑するだけでも努力のいる病態で笑ってみせた。
それだけのことで松本良順はなぜか生涯このことがわすれることができず、思い出すたびに涙した。

このままでは粗相をするかもしれないから1時間だけでも寝させて欲しい。
と家茂に訴えたところ
それはかわいそうなことをした
しかし松本、頼む
と不安という異常心理にある家茂は頼み
わしは、我儘はいうな、といって育てられた。奥でも表でも家来に我儘をいったことがない。松本、そちだけにいうのだ。
こうしよう、ここで寝よ、わしのふとんの中で寝よ
と言われ招き入れられてしまったので、眠気どころではなくかえって目がさめてしまい、かといって眠った体にしなければ家茂に悪いため懸命にいびきをかいて眠ったふりをした。家茂も安心した。

このあたりのエピソードがおもしろい

月曜日, 12月 12, 2011

城塞 (下巻)



日本人に愛されるには詩人もしくは詩的行動者でなければならない
大阪籠城軍諸将の人生と行動はいかにも詩的であり、縞団右衛門はそのなかでもきわだっている

後藤又兵衛
又兵衛は、決戦を決意した。
この時代の習慣としてはめずらしく演説に似たようなものを、おおぜいを相手に語っている。
語った内容というのは
「この又兵衛はじつにうんがよかった」
ということを強調したもので、
「ひさしく牢浪して、おそらくはこのまま草木とともに朽ちはつべしと思うたところ、はからずも右大臣家に召しだされ、うれしや、かような晴れがましき戦場を与えられた。今生においてもはや悔い残すことはなく、いまこそ大恩に酬い参らせるときである。おのおの頼みに存ずる」
と言い、折り敷いた人の群れのなかに割って入り、頼みに存ずる存ずると声をかけつつゆくと、ひとびとは低い声を上げてそれに和し、又兵衛の気持ちに同心した。

若い頃は例えば同盟者である信長に対する実直さが商売のようにまでなっていた家康
老年になってからタヌキおやじと後年に言われるような暗い政治工作が目立った
大阪夏の陣でも圧倒的に数的有利に立ちながらそれでも政治工作をしつづける
城攻めの名人と言われた秀吉が、
攻めにくく作っているんだから城攻めが難しいのは当たり前
と、様々な工作をしながらからっとした印象であったのは
敵の被害および味方の被害を最小限にする
というのが誰の目にも明らかであったから。家康の場合はそのように周囲にみせる努力が足りなかったために徳川政権260年も含めた後世の評価は陰湿、と写ってしまう

後藤又兵衛が無謀にも家康軍に突っ込んで戦死したと聞いたとき、淀殿を筆頭とする無策の犠牲者で無二の理解者であった真田幸村は
城(堀)ほうしなったこの戦いには、もはや一分の勝ち目もない
勝ち目がない以上、いかに美しく死んでおのれの名をすがすがしくするかということしかなく、おなじ負けるなら自分の指揮一つで進退できる手兵をひきいてあざやかな戦闘をしてみせてあざやかな印象を敵という世間にあたえつつ死ぬのが最良の方法であり、もし幸村がその位置に置かれてもそうしたにちがいない

この馬も兜も見おぼえておいてもらいたい
乱軍の中で真田幸村がいかにあざやかに采配をふるい、いかにいさぎよく戦い、戦死するかというその情景を、敵側に従軍する原某にありありと目撃しておいてもらってのちのちの語り草にしてもらいたい
自分が、この負けるときまった戦場においてせめてどのような男であったかということを勝者に立つ原某に知っておいてもらいたい
ででなければ、生きづらい世を懸命に堪えて生きてきた自分の一生というものがあまりに哀れであるという気持ちがあったのであろう

金曜日, 12月 09, 2011

簡単に貯金が増える! 儲かる「お仕事」100



昔堀江さんのblogで宣伝していて知ったと記憶、話のネタorビジネスのネタにと手を取る

多少なりとも興味を持ったのが

冠婚葬祭の出席代行
アドバルーン監視員
墓参り代行
介護食宅配サービス
カウチサーフィン受け入れ
試験監督
撮影の部屋貸し
ボロアパート女子寮
バックパッカー向けゲストハウス開業
過疎地への雑貨訪問販売
海外在住者向け買い物代行
外国人向けマンスリーマンション
限界集落での葬式営業
物件立会人
チャイルドシッター
こども英語教室の講師
ネット検索代行

月曜日, 12月 05, 2011

逆説の日本史〈8〉中世混沌編―室町文化と一揆の謎



足利義教亡き後は強力な指導者が現れずに渾沌とし、応仁の乱に象徴されるまさに混乱の時代に突入する

幕府の有力者達は
有能な将軍は要らない。将軍は飾りで自分たちがその神輿を担ぐからむしろ無能でいい
という空気が支配する。
将軍自身も義教後では下手に有能だと暗殺されてしまうので
政には興味がありません、文化の保護者です
という将軍が多かった。

象徴が、飢饉で都でも餓死者が溢れる中、足利義政は
天下が破れるなら破れよ、世間が滅びるなら滅びよ、人はともあれ我が身さえ富貴ならば (応仁記)
という態度であったという。
実際このように詠んだかでっちあげかは問題でなく少なくとも同時代人は将軍ならこう詠んでもおかしくないと思われていた証拠

そのため史上最悪の悪妻と言われ最も金に汚いと後世言われる日野富子のような強烈な個性であったり、半将軍といわれるほどの細川政元のような人物を生んだ。
この時代は敵味方も頻繁に入れ替わりぐちゃぐちゃ、裏切りも日常茶飯事。

平和秩序としては落第点でも
我々は室町の子
と例えていた方もいたぐらい能をパトロンとして保護した義満であったり文化への関わりは強かった。
畳にしても室町からだし、今の湯風呂も室町から
(畳のような凝ったものの前はフローリングというほどオサレなものでなく普通の板張りが主、またそれ以前は高温の意思に水をかけ蒸気を浴びるサウナのようなものを風呂とよんでいた)

室町時代に作られた文化や生活様式が、そのころはぜいたく品でありつつも時代が下って行くに従い江戸時代あたりにようやく庶民にも浸透していった。
それを今の我々は日本風/和風であると認め暮らしている、その意味で我々の生活文化は室町であるというのは一理ある

また、最後の章では能、将棋、折り紙と風呂敷、花のみち茶に代表される室町文化を解説
古代インド将棋チャトランガが西に伝わりチェスになり、東に伝わり将棋になるが、これに駒を再利用できる、というルールを加えたのは日本人だけ。
海外の文化を輸入してそのオリジナルを改善/改良するというのはまさに日本のお家芸。
ただし将棋には日本文化が詰まっている。
元々戦争ゲームであったが、日本人はゲームであっても戦争は死の穢れを連想させるためそれすらも変えてしまった。
つまり、戦争であれば戦争時に捕虜がそのまま使えるなどはありえない。
また、金/銀/肉桂/香などモノの名前をつけていることからも、輸入当初は戦争ゲームであったものを、相手を買収すれば当然自分の資源として再利用できるモノポリーに近いゲームに作り替えた。
日本人は寝返りが日常茶飯事な気味の悪い民族だ、ということではなく、死を忌み嫌っていたためまったく別のゲームへと変えてしまった。

また、日本では茶が文化となっている。
日本だけが水が安全で他の国は水を飲むには煮沸や消毒の必要があった、その手段の1つとして茶があった。
日本では消毒を目的としては茶の必要はなかった。
非日常であったため文化に昇華されやすかった。

★★★

金曜日, 12月 02, 2011

新装版 歳月 (下)



西郷は
革命に流血が足りなかった、国土が焦土なり果ててようやく新しい国が生まれる
という考えであったから、また国内の主に長州閥の腐敗を見て世の中に嫌気がさし死に場所を求めていたため、盛んに征韓論をとなえその使者にするようにと説得する。

大久保との対決後、西郷の征韓論が潰えそうになったとき、西郷は決議の午後を
私は言うべきことはすべて言った。残っている問題はこの身の進退だけである。
と欠席する。その欠席が無言の威圧感となり、岩倉具視と三条実美が西郷が事実上の征夷大将軍である陸軍大将を辞して故郷に帰るといっている西郷を恐れて逆転して征韓が決定してしまう。

事前の大久保の考えは
「なるほど西郷が辞職ともなればこの政府はつぶれるかもしれませぬ。
しかし西郷の征韓論を容れれば日本がつぶれます。断固として容れるわけには参りませぬ」
と岩倉とタッグを組んでいたため、岩倉に裏切られた形となった大久保は翌営業日に三条実美宛に辞表理由書を出し
「自分は暗愚で国家の重任を負うことができない。とはいえ国家のことを放置するわけではなく、今後征韓方針によって戦争がおこったあかつきには兵卒ともなって一死国恩にむくいるつもりである」
と書いた。
その後、真面目だけが能力だった三条実美が病に倒れ、伊藤俊輔が奔走し、代行を務めた岩倉具視が征韓論反対を明確に再度示し、西郷は薩摩に帰り、後の西南戦争につながった。

西郷とともに征韓論を唱えたため江藤もやめざるを得ず、その後佐賀の「担げる神輿を探している不平分子たち」に声をかけられて大久保の策略にものり乱の首謀者に祭り上げられていく。

戦争は指揮する人間がいないため佐賀側があっけなく破れ、江藤は薩摩、土佐と周るも最後は捉えられる。
全権を任された大久保が見せしめのために超法規的に江藤たちを梟首とした。
田中河内介父子を惨殺したように、大久保は政略上必要であればなんでもする、という方針であることを江藤はしらないための最後だった。

水曜日, 11月 30, 2011

新装版 歳月(上)



この作品の主人公である江藤新平というより、江藤新平を通して大久保利通を読めると手に取る。
時代としては以前読んだ翔ぶが如くと同年代。

司馬さんの文章は細かな描写もおもしろい
伊藤俊輔が桂小五郎に意見を求める描写
桂はこのとき、枝豆を食っていた。食ってはその殻を膳部のすみに丁寧に積みあげていた。枝豆を食うよりも殻を積みあげる作業のほうに興がありそうな、そういう丹念さで積み上げている。
など、細かなそしてあまり思い浮かばない的確な描写。

鍋島藩の貧しい下級武士に生まれた江藤新平がわずかな期間無断で脱藩をするも、京での活動の報告書のできを買われ、理解のある藩主に許され死罪は免れるものの永蟄居にされる。

革命でのたいした功績はないものの、幕末志士があまりもたない才能だった官吏としての才能を買われどんどん出世
法務卿となり、当時の最高職の参議にも名を連ねる
たとえば大久保や岩倉を中心とした欧米派遣組が留守にした2年間、西郷も
政務に向いている人が向いていることをやればいい
と、自分の印形を渡してしまう。
西郷の気持ちとしては、細かなことはやるつもりがなかった。

ただし立場のある身となってからも、薩長土肥のなかで薩長があまりに強大であったため虐げられていた土肥にあって
薩長を滅ぼし肥前を中心として革命をもう一度やり直す
という問題発言を繰り返していたた。

西郷隆盛を中心とした征韓論には
国内を混乱させ、その上で薩長を権力から追い出す
(長人は狡猾であり、薩人は愚鈍である。薩摩を利用して長州を滅ぼしその後佐賀が権力を握る)
という目的のもとに賛成だった。

また、
徳川家康を尊敬していて、
現状から考えてどういう政策が打てるか
という考え方である大久保利通にたいして、江藤新平は理想をつきつけて変えようとする江藤新平思想は両者合わず大久保利通から目を付けられる。
たとえば、江藤新平は
選挙で選ばれた人物が政治を担当するべき
という意見に対して、大久保利通は
維新の精神を貫徹するには30年の時期が要る。
それを仮に三分割すると、明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期
明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。
明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り、発展を待つ時期だ
と考え、国民が育つまでは一部の独裁が望ましく、選挙などは勝海舟とともに明治30年以降の制度と考えていた。

法務卿として、法を絶対とした法治国家を目指し、汚職などは許せない江藤新平としては維新後の金にまみれた長州閥を見逃すことができず原理原則論で汚職者を葬っていく。

いま清盛、とまで言われた、今よりも省の権限としては強大だった大蔵省のトップの地位を利用して尾去沢事件などで自分の懐を潤した井上馨
陸軍卿としての地位を利用して山城屋和助事件などでで汚職をした山県有朋
のふたりがおおきなところ

西郷は新政権で汚職が見られるようになってから時勢にいやけを感じはじめる。
こういう貪官汚吏をつくるために新政府をつくったのではない。
奔走し、倒幕し、戊辰を戦い、敵味方数万の流血のすえつくられた政府を、長州人たちは政権に巣食い利権のしるを吸うことに熱中している。
かといってここで長州をおいつめると新政権はもろく崩れ去る。
自分の前半世がむなしくなり世を捨てたくなった
北海道に行って農夫になりたい
自分は革命を成し遂げ死ぬべきだったのに死に場所を失ったばかりにこんな世の中を見ることになってしまった
と。
それに対して板垣退助は
この国家の危急をかえりみず、なんの面目があって地下の先輩同志にまみゆることができよう
と声を震わせていった。

山城屋和助事件はすさまじい
国家予算の1%を放蕩や長州閥への賄賂でつかってしまい、(山県有朋は捜査が及ぶ前に書類をすべて消滅させる)
山城屋の張本人であり元騎兵隊の志士野村は
おれが死ねば証拠もなくなる、と
長州奇兵隊の幹部として戊辰戦争の軍功とともとに死んでいればこのような恥はなかったのに
という辞世の句とともに、出頭した陸軍省の応接室で自ら香を焚いて短刀で腹を十字に割いて絶命した。

この小説の一番の盛り上がりは戦争場面ではなく西郷と大久保の征韓論での激突。
幼少期はあまりに貧しく、飯時にはちょこんと西郷家に居座り食をともにした兄弟に近い間柄。
幼なじみが協力して一国の二大権力者になってしまうという世界的にも珍しい二人。
内務卿時代も大久保が在籍中かどうかがすぐわかるぐらい、大久保在籍時は彼の威厳で省全体がしずまりかえっていた。
日本人が大久保から受ける圧倒的な威厳だけでなく、神戸監獄の嘱託医のアメリカ人ベリーも会っただけで
卿は自分が日本にきてはじめて遭遇したもっとも偉大で剛毅な人格であった
と感想を残している。
彼は地位にこだわらず、参議を辞め一つ下の卿に移り、ほぼ政府のすべてであった大蔵卿で実務として大蔵省の機構を固めるのに注力した。
事実上の首相であり、
この新国家はおれがつくった
という意識を自他共にもっていた。
さらに他にとっては大久保に恐怖したことは、この独裁権を利用して私腹を肥やそうという念がまったくなかった。
ひとびとは大久保の清廉さをおそれてあがめざるをえなかった。

家康を徳川東照公と呼び
大変革のあた直後はなによりも事態を整理し、守勢をしてゆくことが大事、という家康の言葉を重んじ
政治にとって「やりすぎ」ほどわるいものはない。「やりたらぬ」ほうがはるかにいい、と言った。
一利をおこすよりも一害をのぞくという消極的方法をとる、それが国家という生きものをあつかううえでもっとも大事、という考え。

外遊から帰った大久保にとっては、自分がいない間は何もしないでいることが一番であったのに、司法権を独立させたり留守番にしておいた井上馨を追い出すし、「自分の国家」を江藤新平という小僧が壊そうとしていると感じた。
ここからふたりの対決が表立ってはじまる。

水曜日, 11月 23, 2011

逆説の日本史(11)戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎



第一章 豊臣秀吉、その虚像と実像
・秀吉は右手の指が六本ある多指症であったこと
=>級資料にも残っている、触れないことも差別ではないか、という著者の意見
・朝鮮征伐という言葉に反応し言葉狩りをすること
=>現代であれば征伐などという言葉を使うのは慎むべきだが、歴史を語る上でその出来事が当時なんと呼ばれていたか、までをゆがめるのはおかしい
・羽柴秀吉が改姓を繰り返したことについて
=>木下は妻の名、もともと姓などもたぬ身分だった。
当時の風習として名を大事にするので姓は変えないのが常識。
秀吉は変えている。執着がなかったため。
羽柴は柴田勝家と丹羽長秀から取ったと一般に言われているが、筆頭の柴田と平の丹羽では序列も異なり逆に怒りを買うし、それ以外の重臣の受けもよくないことをするはずがない。
端柴稗吉 という保身を考えた名称から来たのではないか
・平、源になろうとして、最後に金をバラマキ藤原氏に入り関白となる。


第二章 織田つぶしの権謀術数
・明智光秀の本能寺の変は無計画であったから妙覚寺にいた信忠を囲んでいなかった。
しかし秀吉にとっての幸運で、単身でも逃げればよいのに逃げず自害した。(信長弟の有楽斎は三法師を連れ逃げている)
もし信忠が生きていれば、秀吉が毛利と劇的に和平を結んで中国返しをしても後継者騒動は起こりにくかった。
秀吉は光秀を討ってからも、第二の光秀にならぬよう三法師を立て、自分の権力の正当性を丁寧に確立していった。
このあたりは、今の日本を突然暴力で支配するグループが出てきたとしても国民は忠誠しないのと同じ。
・太閤記では賤ヶ岳の戦いで柴田勝家と佐久間盛政の連携が取れなかったことが敗因とある
これは後世の歴史の捏造。
権謀術数に長けた秀吉はいずれにせよ柴田勝家を落としていたが、賤ヶ岳での決定的な勝因は柴田側と思われていた前田利家が秀吉側についたこと。
歴史は勝者が書くので、この点は利家と秀吉の友情話としている。
・秀吉が天下人となれたのは実力もさることながらこの3つの幸運があったため
信長だけでなく信忠まで殺されたこと
信忠の子、三法師は生き残ったこと
次男信雄と三男信孝の仲が極めて悪かったこと


第三章 対決、徳川家康
信長の遺児信雄を家康が助け秀吉と対決する。
結束の硬い家康軍とは異なり、秀吉は欲でつないでいるものの最近まで同僚や上司であった人たちの集団。
平地での単純な戦争では家康に軍配が上がる、小牧長久手の戦いで秀吉は破れる。
そこからが秀吉の人たらしマジックが炸裂するところ。
信雄の領土を攻め信雄を自領に向かわせる、一旦信雄と家康を物理的に離して信雄と和平を結んでしまう。
秀吉以外の誰も、この関係にある人間と和平を結べるとすら考えない。
すでに自分も甚大な被害/出費がありながらも、戦の大義名分がなくなった家康は煮えくり返る腸を抑え
このたびの講和、天下のために誠にめでたい
とメッセージを送る。
無言で去ったのでは難癖をつけられる、また信雄に負い目を作り次回に利用する時にとっておく。
この点、家康もさすがすごいところ。


第四章 豊臣の平和
秀吉の政策と言えば、刀狩と検地がまず出るが、それよりも国内での私戦を禁止した惣無事令が骨太の方針。
信長->秀吉->家康をセットで考えると見えてくる事実がある。
秀吉は基本は信長の方針を踏襲した。家康はその失敗から学び機械のように過ちを繰り返さなかった。


第五章 太閤の外征
昭和のアジア侵略の歴史から、日本人は他国へ侵略することはすべて悪いこと、ごめんなさい、もうしません、おしりぺんぺん、的な所がある。
しかし、近代以前では他国へ攻め入ることは普通であったし、国内が統一された後は多くの歴史では海外侵略を計画する。
江戸時代は単に家康が秀吉が失敗した点は実行しなかっただけ。
例えば大量のユダヤ人が虐殺されたナチスの政策を回避することはできなかったのか?
戦争は悪であり最大限の努力をして避けるべきであるが、被害を最小限に抑えるのはヒトラーを倒すことだったのは事実。
1938年にヒトラーがベルサイユ条約を破り(明白な平和条約違反)オーストリアに侵攻した時にイギリスがヒトラー政権を打倒するべきだった。
もちろん第一次世界大戦で肉親を戦争で失い、戦争はもうイヤだ、絶対にしたくない、と思うのは当然だがそれを「絶対化」すればかえって弊害がある。
愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ
アレクサンダーやチンギス/フビライ、ヌルハチ/太宗のように、前近代においては異民族を侵略し、征服した人間こそ英雄となる。
勝てば官軍、というのであれば筋は通るが、学会や世論は基準もなく秀吉の侵略=悪、と決め悪だから失敗して当然だったと結論づけることが多い。
当時実践で鍛えあげられた30万人の軍隊と最新鋭の武器を持っていた唐入りは決して無謀ではなかった。
(元のチンギスハーンも清のヌルハチも1万人で中国全土を征服した)
ただし、圧倒的な人口比から、もし秀吉の唐入りが成功?したとしたら、清のように自国の文化から何からすべて中国化して結局中国に飲み込まれていた可能性が高い。大陸とつながっていないので清のように飲み込まれることはないかもしれないが確かにこの視点はうなずける。

フロイスが秀吉の唐入りは無謀、としたのは当時のキリスト教はインカやマヤを滅亡させても布教活動の一貫として当然で正しいこと、と考えていたため。キリストを信じない秀吉に加護があるはずがない、という視点。
当時スペインはポルトラルも制し、アジアにも手を伸ばしていた。フィリピンもスペインが征服した時王子の名フェリーペから名付けられた。
唐入りは秀吉はスペインとともに侵攻する計画もあった。
が、本国スペインの無敵艦隊がイギリスに破れるという事件があった。(この事件以後徐々に覇権はスペインからイギリスへ)
当時外国勢は、「日本は資源も少なく、戦争が続いていたため戦闘力が高い。制服を試みても実りが少ない」「逆に中国は資源が多く、平和が長く続いていたため兵も弱い」と考えていたため、日本を利用して中国を手中に収めようとしていた。

結局秀吉は単独で唐入りを行うことになった。
対馬大名宗氏の二枚舌で、朝鮮は宗氏の領土という誤情報が秀吉にはあったことも痛かった。
指揮官が現地に不在で、中国側のだまし停戦にひっかかり兵糧などを抑えられてしまったことも大きな敗因となる。
また、当時の李朝は悪政が続き庶民は不満をもっていた。全盛期の秀吉であればこの点をついて有利に進めることができたはず。
一度目の遠征は唐入りが目的だったものの誤情報が多く、戦闘よりも餓死や凍死で亡くなった数が多かった。
しかし二度目の遠征は朝鮮に危害を加えることが目的化してしまい、そもそもの目的に乏しかった。

月曜日, 11月 21, 2011

逆説の日本史〈10〉戦国覇王編



天才に憧れる男は多いため、私もご多分に漏れず信長については何冊か本を読んだ
なかでもやはり一番のオヌヌメは国盗り物語

この逆説の日本史〈10〉での新しい視点としては

20代から天下一統という目標を明確にしそれに対して執着し何度も危機を脱した点も常人ではない。
特に同盟を組んでいた浅井家が寝返った時と、信長包囲網を紐解いてひとつの勢力ずつ片付けていったところは圧巻
浅井家の裏切りも定説では朝倉家ともともと何代も深い関係であったという説が優勢だが、そもそも朝倉家との仲が深ければ信長の妹を妻になど取らずに朝倉家から取るはず、と分析。
それよりもロボットでいればあやつられるまま延命していたのになまじ無能でないばかりにいろいろ画策をした足利義昭の工作であったと見る。

後世では信長視点で見るので「裏切った」になるが、武家の棟梁である将軍をないがしろにしている信長こそ当時の常識で言えば他家から打たれてもやむを得ない変革者だった。つまり浅井家は裏切りではなく当時の常識人としては当然のことをしたまでではないか、という指摘。

信長は無神論者とよく言われるが、無神論者なのではなく
父親の死の床で祈祷師たちに祈らせるも結局他界したこと
など複数のエピソードを元に、基本的には超自然的なものを認め信心深いものの、自分が実証した結果それがインチキだとわかれば容赦無く排斥する、というのが筆者の分析

安土城

五十三次

また、信長暗殺については
秀吉説や信長説は、その後の天下取りまでが遠く少し無理があるのでは?という筆者の感想
直近で一番得をした長宗我部説
=>きっかけにはなってもより黒幕がいるのでは?
将来的に天皇家を有名無実化もしくは亡きものする可能性があるため朝廷説

海外派兵を視野に入れていた信長に対するイエズス会説

足利義昭説
=>
結局筆者としては司馬さんが言うように
倒さんがために倒したという極めて発作性の強い行動
で黒幕はいなかったのではないか?と見る。

内容としては興味深かったけど前巻の途中から信長だったので&他者への批判にさかれているページも少なくないため

★★★★

月曜日, 10月 31, 2011

逆説の日本史〈9〉戦国野望編



第一章では沖縄の歴史
ヤマタイは中国古音でヤマドゥ、つまりヤマトと同じものであるのに対し
小野妹子が現代の屋久島を意味する夷邪玖(イヤク)は現代発音では異なってもリュウキュウと古代発音では同じであった。
中国に対抗してつけられた名前である日本がジッポンになりジパングになったのと経緯としては似ている。
沖縄の歴史に興味がある人はこの章だけを読むと知ったかぶりができてよいかもしれない。

第二章 海と倭寇の歴史
農民は土地に土着して自分の田畑から離れない
例えば足利尊氏は姓が源で苗字が足利なように
それに対して遊牧民族には定住地というものがない

昔は目に見えるモノを生産することだけが生産であったので、今でこそ世間的には憧れの対象もなっている役者は河原乞食と蔑まれ、一族からその職業が出れば森律子氏の弟のように自殺をすることもあった。
河原で上演されていたからという語源の説が言われているがそれ以前にも、「河原者」という言葉があった。
つまり国や地域社会にとっては定住しない人たちとは不気味なものであり、「田畑を耕す百姓」の反対語として「河原にいる乞食」と言葉が生まれた。
そもそも百姓という語源からして、百の姓つまり国民/人民の意味であったが農民こそ真の百姓(国民)だという強い概念から転化した。
農民政権の権力者としては定住していない/生産が見えにくいということは租税もしにくいということも関係していた。

そもそも非定住民が芸能以外に生業とできるものは何か?
これが商業の起こり
そもそも商とは中国の殷の一部族であった
殷が新興の周に滅ぼされたときに流浪の民となった、そこではじめたのが商業だった
つまり近代以前まで中国人も「商業」に対して賤しい職業という差別意識があった
青森で100円で手に入れたりんごを東京で120円で売るのはけしからん、悪いやつがだましとった、という考え方
西洋でもユダヤ人に対する差別は激しかったが、東洋でも最大国であった中国がこの意識であったのでさらに厳しかった
儒教に影響を朝鮮でも、「士農工商」と一応国民だけど最底辺ね、という扱い
日本は大きく影響は受けたものの、信長や秀吉に代表されるようにそこまで濃厚には影響されていない。
このあたりが日本がいち早く近代化できた原因の一つかもしれない。

家康は信長や秀吉を見習って商業に興味があったのに時代が下るほど老中松平定信の「商は詐なり」に代表されるような感情に支配されるようになった。田沼意次のように開国も視野に入れたような重商主義路線は叩き潰された。

西洋でのユダヤ人差別は、ユダヤ人同士の金銭の貸し借りは無利子なのにユダヤ人以外に貸すときには利息を取る、ような商業への無理解以上にも宗教的な意味が強い。
興奮したユダヤ人の人々がローマのピラト総督に「イエスを十字架にはりつけよ」と言った。
ユダヤ人はイエスをキリストとは認めないし、イエスが唱える新しい契約(新約)も信じない。
キリスト教から見るとユダヤ人はイエスを処刑に追いやったとんでもない民族となる。
この経緯も大きく、それ以来ユダヤ人が伝統的に得意とするのは金融、流通、芸能、法曹、マスコミ、という分野となる。

14〜15世紀 朝鮮半島沿岸で活動
16世紀 中国(明)大陸沿岸で活動
当初は壱岐対馬五島で活動を盛んにしていた日本の海賊であったが、朝鮮や明の国の正式文書として残っているように主体は時期に朝鮮や中国で蔑視/差別され制限されていた商業の人たちが海賊行為を行った。
昔は国家の警察機能などはあてにならなかったため商人は武装集団だった。
そのため同じく倭寇として分類されている秀吉の出兵とあわせて日本人の残虐性と分類するのは間違い。

第三章 戦国 この非日本的な時代
戦国時代が好き、という日本人が多い
これはもともとヤマトという発音があり大きな和と書いてヤマトと読ませるほど何よりも和を第一としてきた日本人には相容れない。
現代でも競争を否定する(競争とは敗者を生み、古代の人が一番恐れる怨恨につながるため)日本人が心のどこかで持つ憧れからくるものだろう。
朝倉敏景、北条早雲、そして大内氏/尼子氏という巨大勢力に埋もれる超弱小勢力から権謀術数を駆使し西日本を広く制覇した毛利元就に強く関心がもたれる。


第四章 武田信玄の限界
第五章 織田信長の野望
では、
信玄の寿命があと10年長かったら信長の天下はなかった
などと言われることもあるが、その武田信玄を例に出して
信長と天下を狙っていたと後世言われる他の大名とはどこが違ったのか?
を次章からの信長編に行く前に補助線を引いている。
私も筆者と同意見で、信玄の寿命が長かろうと京都に近かろうと、天才信長とそれを手本にした秀吉/家康にしか天下は取れなかったと思う。
軍事も強い、地元民は信玄と呼び捨てにせず今だに信玄公と呼ぶほど治水技術を始めとする政治もよかった。
何が足りなかったか?
それは
天下を取るという強い意志、であり、天下を取れる、という発想の転換であった。
今でこそ誰でも
ビジネスで成功する!
など思うことは自由。
だが、昔は身分の違いが大きくあり天下を統一するなど
尾張守護の斯波家の守護代を務めた織田家の、そのまた家老の家来の家柄で分不相応ワロスw
そんなこと考えて口にするだけで生意気だから潰してやんよ
という世界だった。
織田家よりも断然名門だった武田家でも思いもよらなかったと思われるし、出家名である信玄では既得権の最も甚だしい自社は潰せなかった。また武田二十四将も多くは身内/家族経営だった。
信長が目指していたのはシンプルな世の中、既得権益を潰して努力した奴が評価される世の中。
なぜ武田信玄の功績が高く評価され、以前まで織田信長の評価が高くなかったか。
それは評価をする時代背景に影響されると筆者は指摘。
家族経営の集大成であった江戸では
実力主義で抜擢した明智光秀に殺され、また抜擢した別の人物豊臣秀吉にお家を乗っ取られる信長って馬鹿なの?死ぬの?
という結果論で評価は高くなかった。
逆に家族経営を徹底した信玄は評価が高く、現代まで続く信玄への評価はその名残であろうと筆者は想像。

信長が目指す社会にするという目標のために二十代後半から着実に一手一手を打ち、そのための手段が天下布武であったり鉄砲隊の大量配置の手段だった。
桶狭間で今川を倒したら誰もが今川領に打って出て領地拡大すると思う所に打ったては
三河の松平家と提携
=>肥沃な今川領を取ると武田や北条と接するため争いになる、三河の家康で防がせておけ
=>対する信玄は単なる領地争いで川中島で上杉家と死闘を行なっている
美濃攻略
=>斎藤道三の弔いの意味もあったかどうかはさておき、京への道筋を作った
浅井家に妹を嫁がせる
=>京への道筋をつける、このあたりは本書に地図があるのでわかりやすい
比叡山焼き討ち
=>武装集団、利権集団、政治団体としての寺社の解体

政治、軍事、外交のすべてが天下一統にベクトルが向いている

金曜日, 10月 28, 2011

城塞 (中巻)



後年になると、大坂冬の陣および夏の陣での鬼神の活躍により真田幸村がはるかに有名だが、豊臣家に呼ばれた時は幸村の亡き父の真田昌幸が有名であるだけで幸村自信はまったくの無名だった。
父親が臨終の際に
徳川に対して勝てる秘策があるがおまえには無理だ
という。
将棋は手が同じであれば誰が指しても同じである
しかし、世間には(いくさの大将のように)同じことを言っても誰が言ったかによって聞き入れられたり聞き入れられなかったりする
知名度のある自分だから周りは納得するのであって、知名度や実績のないおまえではこの策を伝えても無駄だ、用いられない
と言っていたのは、世の中まさにそうだなと実感。

たとえ敗けても幸村には失うべき城も領地もない
死に花も花なら咲かせ得である
死の危険をともなう賭けとその情念のつよさは泰平の世のひとびとにはわかりにくい
というくだりなど、IT戦国時代でニッチ分野ならまだまだ勝負が可能な今でこそ若者は刻むべき言葉だろう。

また、本心かゆさぶりかは不明だが幸村に苦戦した家康が幸村を取り込みに来た時の言葉
「私をひろってくださったのは右大臣家である
それまでどうであったろう
所領をうしない、亡父とともに高野の山麓で蟄居し、天下のたれもが相手にせず、日常は鬱々たるものであった
そのそれがしに右大臣家からお召があり、いきなり八千人の将にしてくだされた
物質的処遇としては家康が提示した一万石のほうがはるかに値は大きい
が、幸村が秀頼に感謝しているところは、自分の器量を見出してくれ、仕事の場をあたえてくれた、ということであった
この天下の名城に拠って八千人を切りまわせば、天下の大軍を相手にしうる、男子の本懐とはそういうものであり、所領をどれほどもらうということではないのだ、という意味である

この幸村、たとえ日本国の半分を割きあたえられようとも、この御城を退きませぬぞ、左様に申し上げられよ」
も男であれば刺さる。

★★★★

水曜日, 10月 26, 2011

決算書がスラスラわかる 財務3表一体理解法




國貞克則さんの当時話題になった会計の本

PLの当期純利益とBSの利益剰余金
PLの税引前当期純利益とCSの税引前当期純利益
CSの現金の残高とBSの現金及び預金
を通して、財務3表は「つながっている」ということを丁寧に説明する良著

読者に仮想的に副業の会社を作らせて
資本金300万で会社設立
事務用品5万を現金で購入
パソコン一式を現金50万円で購入
HP作成を発注、外注費20万円を現金で支払う
創立費30万円を資産に計上する
販売商品を現金150万円で仕入れる
商品が現金300万円で売れる
500万借り入れる
商品750万円を買掛で仕入れる
売掛で1500万円を販売
買掛金750万を支払う、勘定合って銭足らず
売掛金1500万のうち1000万を回収
役員報酬50万円を支払う、うち源泉所得税2万を会社が預かる
商品の発送費用100万円を一括払い
短期借入金500万を返し、利息50万を払う
在庫100万円を認識する
減価償却費10万円と繰延資産償却6万を計上
法人税300万を計上
配当と純資産の部
などを説明する。


わかりやすくてたしかに良著であるとは思うけど、それ以上に売り方がうまかったと感じる。
これと同じようなこと書いてある書籍はたくさんあるだろうし、こう以外に説明のしようがない。
★★★★

月曜日, 10月 24, 2011

城塞 (上巻)



関ヶ原以降事実上の日本の覇者である将軍(他国で言うエンペラー)となった徳川家
秀吉の遺児秀頼が成人するまでの後見人かと期待する豊臣方も多かったが、家康は将軍職を息子秀忠に譲る

関ヶ原とは
北政所の見方では
豊臣とは秀吉一代の幻であったので時勢に任せ徳川に任せるべきであるという考え。子がなかったので諦めも早いとも言える。
一方、淀殿の見方では
秀頼という嫡男があり、秀吉の期待もあったことから豊臣家の永続を願う。
の「女二人の戦争」とおもしろおかしくするために言う人もいるが、さすがにそこまでではないもののとても無視できない役割をこの二人は果たす。

ただし淀殿は幼い頃に浅井家として、その後柴田家として戦争し親が自害させられるという経験を持つことから、武に対する人並み以上の嫌悪感がある。そのため豊臣家も武家棟梁としてではなく公卿化していきたいという意向であったと思われる。
もともと豊臣という姓自体が源平藤橘に加わる新たな公家として姓を受けている。
このあたりの淀殿が曖昧で、曖昧というか明確な意志と呼べるものではなく感情で動いていたのだろうけど、公卿という権力のない権威になるのであれば石高も八十万石程度からせいぜい数千石に減らさなければ道理に合わないのにどっちつかずにただ
徳川はそもそも豊臣の家臣のはずです
という考えのもと年月が大阪城で過ぎていた。

淀殿は秀頼のお袋様、という以外に公式な官がない。
そのため一歩大阪城に出れば、何の権威権力も持たないためずっと大阪城に篭る。
また秀頼も外に出れば亡き者にされる、と考え一歩も外に出さなかった。
1万人にも達する秀頼のために大阪城に居住する女性たちがすべて、秀頼という豊臣家の残り香のような存在が消えると豊臣家と共に滅びる、というところにもろさがある。

また、徳川家も下手に争いを仕掛けると、いくら時勢は徳川といえど、ヒロイズムで豊臣家に味方する家も多いためこちらもつなわたり的な状態だった。

毒殺とも言われている加藤清正や浅野幸長が亡き後に、70歳になっていた家康は
豊臣家を潰す
と決心し、謀略に謀略を重ね豊臣家/大阪城をまず内部分裂させ戦争をむこうから仕掛けさせる。
上巻ではその謀略、挑発が描かれる。

★★★★

水曜日, 10月 19, 2011

胡蝶の夢 (第2巻)



二巻も読了

やばい。。
どなたかが司馬さんの作品で一番面白いといってたので手に取ったけど、今のところ一番つまらない。。
司馬さんの作品でなかったら放り出してるところだけど、一応最期まで読もう。。

月曜日, 10月 17, 2011

胡蝶の夢〈第1巻〉



これはどなたかが、「司馬作品の中では一番好き!」と言ってらしたので手に取り積ん読になっていた。

松本良順と島倉伊之助の話
個人的に過度に無礼な人が嫌いなせいか、この巻では描写の多い伊之助の性格に馴染めずあまりおもしろくなかった
司馬さんの作品にはめずらしく、個人的には低評価をつけてみる
★★

今後の巻に期待