月曜日, 12月 12, 2011
城塞 (下巻)
日本人に愛されるには詩人もしくは詩的行動者でなければならない
大阪籠城軍諸将の人生と行動はいかにも詩的であり、縞団右衛門はそのなかでもきわだっている
後藤又兵衛
又兵衛は、決戦を決意した。
この時代の習慣としてはめずらしく演説に似たようなものを、おおぜいを相手に語っている。
語った内容というのは
「この又兵衛はじつにうんがよかった」
ということを強調したもので、
「ひさしく牢浪して、おそらくはこのまま草木とともに朽ちはつべしと思うたところ、はからずも右大臣家に召しだされ、うれしや、かような晴れがましき戦場を与えられた。今生においてもはや悔い残すことはなく、いまこそ大恩に酬い参らせるときである。おのおの頼みに存ずる」
と言い、折り敷いた人の群れのなかに割って入り、頼みに存ずる存ずると声をかけつつゆくと、ひとびとは低い声を上げてそれに和し、又兵衛の気持ちに同心した。
若い頃は例えば同盟者である信長に対する実直さが商売のようにまでなっていた家康
老年になってからタヌキおやじと後年に言われるような暗い政治工作が目立った
大阪夏の陣でも圧倒的に数的有利に立ちながらそれでも政治工作をしつづける
城攻めの名人と言われた秀吉が、
攻めにくく作っているんだから城攻めが難しいのは当たり前
と、様々な工作をしながらからっとした印象であったのは
敵の被害および味方の被害を最小限にする
というのが誰の目にも明らかであったから。家康の場合はそのように周囲にみせる努力が足りなかったために徳川政権260年も含めた後世の評価は陰湿、と写ってしまう
後藤又兵衛が無謀にも家康軍に突っ込んで戦死したと聞いたとき、淀殿を筆頭とする無策の犠牲者で無二の理解者であった真田幸村は
城(堀)ほうしなったこの戦いには、もはや一分の勝ち目もない
勝ち目がない以上、いかに美しく死んでおのれの名をすがすがしくするかということしかなく、おなじ負けるなら自分の指揮一つで進退できる手兵をひきいてあざやかな戦闘をしてみせてあざやかな印象を敵という世間にあたえつつ死ぬのが最良の方法であり、もし幸村がその位置に置かれてもそうしたにちがいない
この馬も兜も見おぼえておいてもらいたい
乱軍の中で真田幸村がいかにあざやかに采配をふるい、いかにいさぎよく戦い、戦死するかというその情景を、敵側に従軍する原某にありありと目撃しておいてもらってのちのちの語り草にしてもらいたい
自分が、この負けるときまった戦場においてせめてどのような男であったかということを勝者に立つ原某に知っておいてもらいたい
ででなければ、生きづらい世を懸命に堪えて生きてきた自分の一生というものがあまりに哀れであるという気持ちがあったのであろう