月曜日, 12月 05, 2011
逆説の日本史〈8〉中世混沌編―室町文化と一揆の謎
足利義教亡き後は強力な指導者が現れずに渾沌とし、応仁の乱に象徴されるまさに混乱の時代に突入する
幕府の有力者達は
有能な将軍は要らない。将軍は飾りで自分たちがその神輿を担ぐからむしろ無能でいい
という空気が支配する。
将軍自身も義教後では下手に有能だと暗殺されてしまうので
政には興味がありません、文化の保護者です
という将軍が多かった。
象徴が、飢饉で都でも餓死者が溢れる中、足利義政は
天下が破れるなら破れよ、世間が滅びるなら滅びよ、人はともあれ我が身さえ富貴ならば (応仁記)
という態度であったという。
実際このように詠んだかでっちあげかは問題でなく少なくとも同時代人は将軍ならこう詠んでもおかしくないと思われていた証拠
そのため史上最悪の悪妻と言われ最も金に汚いと後世言われる日野富子のような強烈な個性であったり、半将軍といわれるほどの細川政元のような人物を生んだ。
この時代は敵味方も頻繁に入れ替わりぐちゃぐちゃ、裏切りも日常茶飯事。
平和秩序としては落第点でも
我々は室町の子
と例えていた方もいたぐらい能をパトロンとして保護した義満であったり文化への関わりは強かった。
畳にしても室町からだし、今の湯風呂も室町から
(畳のような凝ったものの前はフローリングというほどオサレなものでなく普通の板張りが主、またそれ以前は高温の意思に水をかけ蒸気を浴びるサウナのようなものを風呂とよんでいた)
室町時代に作られた文化や生活様式が、そのころはぜいたく品でありつつも時代が下って行くに従い江戸時代あたりにようやく庶民にも浸透していった。
それを今の我々は日本風/和風であると認め暮らしている、その意味で我々の生活文化は室町であるというのは一理ある
また、最後の章では能、将棋、折り紙と風呂敷、花のみち茶に代表される室町文化を解説
古代インド将棋チャトランガが西に伝わりチェスになり、東に伝わり将棋になるが、これに駒を再利用できる、というルールを加えたのは日本人だけ。
海外の文化を輸入してそのオリジナルを改善/改良するというのはまさに日本のお家芸。
ただし将棋には日本文化が詰まっている。
元々戦争ゲームであったが、日本人はゲームであっても戦争は死の穢れを連想させるためそれすらも変えてしまった。
つまり、戦争であれば戦争時に捕虜がそのまま使えるなどはありえない。
また、金/銀/肉桂/香などモノの名前をつけていることからも、輸入当初は戦争ゲームであったものを、相手を買収すれば当然自分の資源として再利用できるモノポリーに近いゲームに作り替えた。
日本人は寝返りが日常茶飯事な気味の悪い民族だ、ということではなく、死を忌み嫌っていたためまったく別のゲームへと変えてしまった。
また、日本では茶が文化となっている。
日本だけが水が安全で他の国は水を飲むには煮沸や消毒の必要があった、その手段の1つとして茶があった。
日本では消毒を目的としては茶の必要はなかった。
非日常であったため文化に昇華されやすかった。
★★★