金曜日, 12月 02, 2011
新装版 歳月 (下)
西郷は
革命に流血が足りなかった、国土が焦土なり果ててようやく新しい国が生まれる
という考えであったから、また国内の主に長州閥の腐敗を見て世の中に嫌気がさし死に場所を求めていたため、盛んに征韓論をとなえその使者にするようにと説得する。
大久保との対決後、西郷の征韓論が潰えそうになったとき、西郷は決議の午後を
私は言うべきことはすべて言った。残っている問題はこの身の進退だけである。
と欠席する。その欠席が無言の威圧感となり、岩倉具視と三条実美が西郷が事実上の征夷大将軍である陸軍大将を辞して故郷に帰るといっている西郷を恐れて逆転して征韓が決定してしまう。
事前の大久保の考えは
「なるほど西郷が辞職ともなればこの政府はつぶれるかもしれませぬ。
しかし西郷の征韓論を容れれば日本がつぶれます。断固として容れるわけには参りませぬ」
と岩倉とタッグを組んでいたため、岩倉に裏切られた形となった大久保は翌営業日に三条実美宛に辞表理由書を出し
「自分は暗愚で国家の重任を負うことができない。とはいえ国家のことを放置するわけではなく、今後征韓方針によって戦争がおこったあかつきには兵卒ともなって一死国恩にむくいるつもりである」
と書いた。
その後、真面目だけが能力だった三条実美が病に倒れ、伊藤俊輔が奔走し、代行を務めた岩倉具視が征韓論反対を明確に再度示し、西郷は薩摩に帰り、後の西南戦争につながった。
西郷とともに征韓論を唱えたため江藤もやめざるを得ず、その後佐賀の「担げる神輿を探している不平分子たち」に声をかけられて大久保の策略にものり乱の首謀者に祭り上げられていく。
戦争は指揮する人間がいないため佐賀側があっけなく破れ、江藤は薩摩、土佐と周るも最後は捉えられる。
全権を任された大久保が見せしめのために超法規的に江藤たちを梟首とした。
田中河内介父子を惨殺したように、大久保は政略上必要であればなんでもする、という方針であることを江藤はしらないための最後だった。