月曜日, 6月 29, 2009

お金のIQ お金のEQ



ユダヤ人大富豪の教えなどのベストセラーのある著者

EQの4原則
・受け取ること
・感謝して、心から味わうこと
・信頼すること
・分かち合うこと

また、自分のお金に対する姿勢を理解するためには、自分が小さかった
頃からや、両親/家族について考えて見ることが必要と説く。
両親はお金についてどう感じていたと思うか
両親はお金とどう付き合っていたか
お金に関して思い出すドラマはあるか
など

月曜日, 6月 15, 2009

それから



前作の三四郎は一応最後まで読みました。
が、本作は半分ぐらいで読むのをやめました。私には合わないのでしょうな。

明日6/16(火)は朝から出張に発ちます。今度はベトナムです。

金曜日, 6月 12, 2009

三四郎



それからに続く3部作の一巻目

球技等はもちろんのこと短距離走でも昔より今のほうがレベルが高くなっていく。
将棋等の知的スポーツもそう。

で、あれば文学作品も過去の作品は土台にされ乗り越えられるためにあるのかも。

というわけであまりおもしろくなかったです。
5~10ページぐらいで収まる内容を300ページに無理して引き延ばしたような。

水曜日, 6月 10, 2009

新史太閤記



家康や信長と比べると好意を持てなかった秀吉。
やはり魅力的な人物であったと評価が変わった。

継父と合わず「我に父なし」とのちのちまで語る。
母のみを鄭重にし、母が80歳で死んだときその悲しみで気絶したほどだった。

幼い頃は商人に憧れ各地を猿扱いされながら転々とする。
今川家領にいたころは
「(家康が捕虜に捕られているので)駿遠両国は三河に戦争をさせる」
と聞き、
「それでは三河が戦さ慣れしてますます強くなるだけだ」と冷静に分析。

京に憧れるこの地では醜い自分は人扱いもされないと尾張に求める。

駿遠両国で特に粗末に扱われ、
「われは狂言師のつもりかよ」
「いやさこの世は、いわば長い狂言の場ではありますまいか」
の言葉。

その顔を利用して、信長に拾われる。
欠員の出た足軽の位置に収まる。藤吉郎はその欠けた足軽の名。

信長が今川義元の大群を討った田楽狭間の戦い。
そこで身長145cmほどの猿が踊る。非力な猿が雑兵首一つとれる訳では
ないが、自分の青春を陰惨ならしめた駿府の侍が逃げ惑い、信長の
兵が猟犬のように処刑する。
今後の猿の新しい幕を大汗をかいてあげてくれているようであり、
猿は血と雨の飛ぶその群れのあいだを、司祭者のように駆け回った
に過ぎなかった。

この頃の慣例では、大将の首をあげた者が功労の一番であった。
が、今回の田楽狭間の戦いではわずかの加増。
首を獲れる状況までもっていったのは信長自身であった。
三千貫の大録を与えられたのは、桶狭間に今川義元の在ることを信長に
諜報し、かつ奇襲を勧めた梁田政綱。
古来、このような場合、武功として記録にすら残らずゼロ評価だった。

佐久間信盛、柴田勝家が失敗する、美濃攻めのための墨股の建築。
かつての兄貴分蜂須賀小六も藤吉郎の運とどんなときでも絶えず笑い声
を立て隅々まで励ます陽気さに惹かれ配下となる。
藤吉郎は組み上げた材料を現地へ運ぶという方法で短期間で城を築いた。

幼い頃から商人の考えが染み付いていた藤吉郎
録500貫を授かった時も
「これは難儀なこと。殿様に御損をかけた。倍の千貫はかせぎとらねば
ならぬ」と武家常識とはまったく違う思考法。
これは父信秀と義父斎藤道三の商人的思考を引き継いだ信長の思考に
藤吉郎が必死に合わせたためと考えられる。

10年以上を費やした最後の美濃攻め。
蜂須賀小六ら数人と、長良川の崖から稲葉山によじ上り稲葉山城に入り込む。

既に軍師になった竹中半兵衛から
「死にますよ」と。
「それでも登りますか」と聞く竹中半兵衛にたいして。
「もともとですから」
その日に食べる物に難渋した少年時代を思えば、今功名のために生死を
かけるなどなんでもない、というのが、もともとですからということ。

諜略外交を駆使する藤吉を見て、信長の思想も変わっていく。
が藤吉にとっては、信長の思想がそうであるので自分を懸命に合わせていった。
身分は違えど、お互いが影響を与え合うパートナとなっていく。

信長が立てた義昭のいる京護衛を任される。
礼儀は知っていてもわざと礼儀を無視し、自分は信長の名代であると誇示。

信長は人に使われたことがなく、また損得勘定のみで人が動くと考えて
いたため、想定外のことがたびたび起こった。

朝倉氏を攻めている途中、尾張一の美女と言われたお市を嫁がせた浅井
長政から戦を仕掛けられる。あれだけよくしてやったのにはて?と思うも
もともと朝倉氏と仲がよかった浅井氏、昨日今日の婚姻関係ではない。

いっきに窮地に立たされた信長軍、しんがりを秀吉が申し出る。
諜略ばかりでなく武功を立てろ、と仲の良い前田利家すらからも言われて
いた秀吉は武功を焦っていたため壊滅を防ぐ人柱を申し出た。
家康も秀吉を助ける。
後に信長は
「あのときの猿の働きがなければこの信長はなかった。
あの時徳川殿がなければ猿はなかった」と語る。

また、秀吉は信長の喜ぶつぼを誰よりも心得ていた。
わかりきったことでも最後の一押しは信長に尋ね、
「猿。うぬは小利口ぶっても、これほどのことがわからぬのか。こうせい」
と明快な指示をもらい、「あらうれしや」としんからの喜びをみせる。
そんな人物が憎かろうはずがない。

敵将の館に一人で行く秀吉にまたも竹中半兵衛が「殺されますよ」と忠告。
「まぁ、五分五分だな。が、仕事は常にそうしたものだ。」と答える。

信長に大名の地位を与えられてから血筋の良い女性を抱くことに血眼になる。
そのあたりの作者の描写もうまい。

自分に与えられた筑前を「おれの里へ帰った」というなど地域への密着
の仕方もうまいものがある。

中国地方の毛利との境を織田領としてきた秀吉に信長は茶器を与える。
それにも秀吉は大喜び。

また、黒田官兵衛の活躍や荒木村重に捕われた獄中生活など見所がある。
下巻に期待。

司馬さんの作品はとても面白いのだが地図が欲しい...

月曜日, 6月 08, 2009

ローマ人の物語 (3) ― ハンニバル戦記(上)



ローマ人でないハンニバルが主役のローマ人の物語、第三巻
ユリウスカエサル、アウグストゥス、と並び面白い時代

シチリアのメッシーナから援軍を求められたローマ軍と、当時の
地中海一の海洋大国であったカルタゴとの覇権をめぐる戦い。
メッシーナは同盟国ではなかったが、援軍を送らないことは即、
カルタゴの脅威がすぐ隣までくることを意味した。
その戦い第一次ポエニ戦役は紀元前264年から紀元前241年の23年間におよぶ。

海軍というものをほとんどもたなかったローマがカルタゴの模倣
をすることにより海軍の技術と量産体制の点で10~20年で追いつく
この時代のローマの勢いはとてつもない。
紀元前348年に同じカルタゴと結ばれた「ローマ人はカルタゴの許可なく
海で手も洗えない」という不平等条約を結ばざるを得なかった国力差
とは思えない。

印象に残ることとしては

共和制ローマでは送り出された軍の総司令官である執政官にたいして
・元老院でさえ何も指令は与えないし
・作戦上の口出しもしない
・任地での戦略も作戦の立案も一任
・心置きなく任務に専念するよう、敗北しても責任は問われない
・講和を申し出るのも受けるのも、講話の条件も交渉も
すべて任されていた。
最高決議の場である市民集会はその講和の内容に賛否を示すだけ。
マキャベリが絶賛する制度。

ローマ人の面白いところは、他の民族があることをうまくやれる
のであれば特に自分たちはNo1でなくてよいと考えていた点。
エトルリア人は土木事業
ギリシア人には多方面に通商/芸術/哲学/数学
と、なんでも他の民族の方が優れていれば取り入れたり任せたりした。

彼らが優れていたのは、同化でありシステム化。
今日ではドイツ・フランスの主要都市であるケルン・プロヴァンス
はコローニア(植民地と訳)・プロヴィンチア(属州)より変化した。

ローマにとってシステムとは画一を意味せず、ナイーブな時には
ケースバイケースの対応をした。
他国に勝利を収めた後、その国がどうローマに貢献するかも状況に
応じた。年貢や租税を払わない代わりに兵力の提供を求める、など。
今日の西欧思想の根幹であるローマ/ギリシアには資金提供よりも
兵力提供の方が名誉ある協力の仕方と考えられていた。

日本が欧米に対して、個人個人はともかくとして、国全体として
「僕ら仲間だけど家の決まりで危ないことはしちゃいけないんだ。
でもそれだと悪いからお金多めに払うよ。」
というのは彼らの思想からみるとまるっきり奇異に映るだろう。

第一次ポエニ戦役後に手にしたシチリアが肥沃な土地であったため
小麦の値段が暴落し、イタリア本土は競争力を失い、葡萄/オリーブ
畑に一変させていったのはこのころ。

また、ローマ市民:同盟諸国の人口比は1:3であったにも関わらず
毎年動員される塀数はほぼ同じ。覇権国家ローマの一員であると
いうことは同盟諸国の人々にくらべて三倍の軍役を務めなければ
ならなかった。
ローマ軍団の総指揮権は常にローマ人が握っていたが、それは覇者
であったからだけでなく、他者以上の犠牲をもつ高貴な人のもつ
義務であった。

ローマの軍隊の行動は行軍のスピードから服装から持ち物から
野営のテントの張り方までマニュアル化できるところはすべて
マニュアル化されていた。
これは指揮官や兵の任期が1年であったので、細部まで決めて
おかねばならなかった。

さて、カルタゴ。
国内重視派と対立した対外進出派のハンニバルの父ハミルカルは
第一次ポエニ戦役後にスペイン/ポルトガルに渡りそこで「カルタゴ
・ノヴァ(新カルタゴ:現カルタヘーナ)」を中心に一大帝国を築く。

「父ハミルカルは同行を願った九歳の自分をバール神殿に連れて行き
生涯ローマを敵にすることを神に誓わせた後でスペインへの同行を
許した」と語るハンニバルが次の巻から活躍をする第二次ポエニ戦役

金曜日, 6月 05, 2009

'08法人決算メモ

2008.04から2009.03まで無事期が終わりました

2009年5月末に無事確定申告を済ませ、税務書類などの提出も終わりました。
・よく言えばなんにでも興味を持つ
・悪く言えば実際に自分で経験しないと理解できない
ので税理士さんなどには依頼せず自分ですべての処理を行いました。

今後のメモ&情報共有として

所在は世田谷区、人数は少人数、職業は主にITに関わること全般です。
記帳は弥生会計とエクセルを使っています。

几帳面なので毎月月次で締めてしっかりと記帳や売上に漏れがないか
確認していましたし、個人で確定申告は幾度となく経験しているので
甘く見ていましたが法人の書類がたくさんありあせってしまいました。

東京都の場合、区の税務署->都税事務所の順に以下の書類を提出
すると終わります。

・区の税務署
1.法人事業概況説明書
2.別表一,二,三,四,十五
3.弥生会計から出力されるB/SとP/L

・都税事務所
私の場合は世田谷都税事務所の法人部門が閉鎖され渋谷に移った
とのことでしたので渋谷で都民税/事業税を納めました。

私の法人は2008/4/1設立を予定していたのですが、手続きが遅れ
2008/4/2設立となった経緯があります。
それが幸いして2008/4/2から2009/3/31の11か月扱いとなり
70,000円×(11か月/12か月)=64,100円
となりました。

区の税務職員/都税事務所の方に不明点を丁寧に教えていただ
きました。ありがとうございました。

水曜日, 6月 03, 2009

B/S集計:2009.05

月に一度のB/S集計
2009.05

Cash : 69.9% (現預金/MMF等)
Bond Fund : 5.2%
Foreign Currency : 0%
Stock : 24.8% (元自社株:18.3%,個別株:6.6%)
Total : 100%

Cashの比率が高く何に振り向けてよいのか当惑気味

元自社株は簿価と時価の評価が入り乱れわけがわからなくなってきました