月曜日, 6月 08, 2009
ローマ人の物語 (3) ― ハンニバル戦記(上)
ローマ人でないハンニバルが主役のローマ人の物語、第三巻
ユリウスカエサル、アウグストゥス、と並び面白い時代
シチリアのメッシーナから援軍を求められたローマ軍と、当時の
地中海一の海洋大国であったカルタゴとの覇権をめぐる戦い。
メッシーナは同盟国ではなかったが、援軍を送らないことは即、
カルタゴの脅威がすぐ隣までくることを意味した。
その戦い第一次ポエニ戦役は紀元前264年から紀元前241年の23年間におよぶ。
海軍というものをほとんどもたなかったローマがカルタゴの模倣
をすることにより海軍の技術と量産体制の点で10~20年で追いつく
この時代のローマの勢いはとてつもない。
紀元前348年に同じカルタゴと結ばれた「ローマ人はカルタゴの許可なく
海で手も洗えない」という不平等条約を結ばざるを得なかった国力差
とは思えない。
印象に残ることとしては
共和制ローマでは送り出された軍の総司令官である執政官にたいして
・元老院でさえ何も指令は与えないし
・作戦上の口出しもしない
・任地での戦略も作戦の立案も一任
・心置きなく任務に専念するよう、敗北しても責任は問われない
・講和を申し出るのも受けるのも、講話の条件も交渉も
すべて任されていた。
最高決議の場である市民集会はその講和の内容に賛否を示すだけ。
マキャベリが絶賛する制度。
ローマ人の面白いところは、他の民族があることをうまくやれる
のであれば特に自分たちはNo1でなくてよいと考えていた点。
エトルリア人は土木事業
ギリシア人には多方面に通商/芸術/哲学/数学
と、なんでも他の民族の方が優れていれば取り入れたり任せたりした。
彼らが優れていたのは、同化でありシステム化。
今日ではドイツ・フランスの主要都市であるケルン・プロヴァンス
はコローニア(植民地と訳)・プロヴィンチア(属州)より変化した。
ローマにとってシステムとは画一を意味せず、ナイーブな時には
ケースバイケースの対応をした。
他国に勝利を収めた後、その国がどうローマに貢献するかも状況に
応じた。年貢や租税を払わない代わりに兵力の提供を求める、など。
今日の西欧思想の根幹であるローマ/ギリシアには資金提供よりも
兵力提供の方が名誉ある協力の仕方と考えられていた。
日本が欧米に対して、個人個人はともかくとして、国全体として
「僕ら仲間だけど家の決まりで危ないことはしちゃいけないんだ。
でもそれだと悪いからお金多めに払うよ。」
というのは彼らの思想からみるとまるっきり奇異に映るだろう。
第一次ポエニ戦役後に手にしたシチリアが肥沃な土地であったため
小麦の値段が暴落し、イタリア本土は競争力を失い、葡萄/オリーブ
畑に一変させていったのはこのころ。
また、ローマ市民:同盟諸国の人口比は1:3であったにも関わらず
毎年動員される塀数はほぼ同じ。覇権国家ローマの一員であると
いうことは同盟諸国の人々にくらべて三倍の軍役を務めなければ
ならなかった。
ローマ軍団の総指揮権は常にローマ人が握っていたが、それは覇者
であったからだけでなく、他者以上の犠牲をもつ高貴な人のもつ
義務であった。
ローマの軍隊の行動は行軍のスピードから服装から持ち物から
野営のテントの張り方までマニュアル化できるところはすべて
マニュアル化されていた。
これは指揮官や兵の任期が1年であったので、細部まで決めて
おかねばならなかった。
さて、カルタゴ。
国内重視派と対立した対外進出派のハンニバルの父ハミルカルは
第一次ポエニ戦役後にスペイン/ポルトガルに渡りそこで「カルタゴ
・ノヴァ(新カルタゴ:現カルタヘーナ)」を中心に一大帝国を築く。
「父ハミルカルは同行を願った九歳の自分をバール神殿に連れて行き
生涯ローマを敵にすることを神に誓わせた後でスペインへの同行を
許した」と語るハンニバルが次の巻から活躍をする第二次ポエニ戦役