水曜日, 11月 30, 2011
新装版 歳月(上)
この作品の主人公である江藤新平というより、江藤新平を通して大久保利通を読めると手に取る。
時代としては以前読んだ翔ぶが如くと同年代。
司馬さんの文章は細かな描写もおもしろい
伊藤俊輔が桂小五郎に意見を求める描写
桂はこのとき、枝豆を食っていた。食ってはその殻を膳部のすみに丁寧に積みあげていた。枝豆を食うよりも殻を積みあげる作業のほうに興がありそうな、そういう丹念さで積み上げている。
など、細かなそしてあまり思い浮かばない的確な描写。
鍋島藩の貧しい下級武士に生まれた江藤新平がわずかな期間無断で脱藩をするも、京での活動の報告書のできを買われ、理解のある藩主に許され死罪は免れるものの永蟄居にされる。
革命でのたいした功績はないものの、幕末志士があまりもたない才能だった官吏としての才能を買われどんどん出世
法務卿となり、当時の最高職の参議にも名を連ねる
たとえば大久保や岩倉を中心とした欧米派遣組が留守にした2年間、西郷も
政務に向いている人が向いていることをやればいい
と、自分の印形を渡してしまう。
西郷の気持ちとしては、細かなことはやるつもりがなかった。
ただし立場のある身となってからも、薩長土肥のなかで薩長があまりに強大であったため虐げられていた土肥にあって
薩長を滅ぼし肥前を中心として革命をもう一度やり直す
という問題発言を繰り返していたた。
西郷隆盛を中心とした征韓論には
国内を混乱させ、その上で薩長を権力から追い出す
(長人は狡猾であり、薩人は愚鈍である。薩摩を利用して長州を滅ぼしその後佐賀が権力を握る)
という目的のもとに賛成だった。
また、
徳川家康を尊敬していて、
現状から考えてどういう政策が打てるか
という考え方である大久保利通にたいして、江藤新平は理想をつきつけて変えようとする江藤新平思想は両者合わず大久保利通から目を付けられる。
たとえば、江藤新平は
選挙で選ばれた人物が政治を担当するべき
という意見に対して、大久保利通は
維新の精神を貫徹するには30年の時期が要る。
それを仮に三分割すると、明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期
明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。
明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り、発展を待つ時期だ
と考え、国民が育つまでは一部の独裁が望ましく、選挙などは勝海舟とともに明治30年以降の制度と考えていた。
法務卿として、法を絶対とした法治国家を目指し、汚職などは許せない江藤新平としては維新後の金にまみれた長州閥を見逃すことができず原理原則論で汚職者を葬っていく。
いま清盛、とまで言われた、今よりも省の権限としては強大だった大蔵省のトップの地位を利用して尾去沢事件などで自分の懐を潤した井上馨
陸軍卿としての地位を利用して山城屋和助事件などでで汚職をした山県有朋
のふたりがおおきなところ
西郷は新政権で汚職が見られるようになってから時勢にいやけを感じはじめる。
こういう貪官汚吏をつくるために新政府をつくったのではない。
奔走し、倒幕し、戊辰を戦い、敵味方数万の流血のすえつくられた政府を、長州人たちは政権に巣食い利権のしるを吸うことに熱中している。
かといってここで長州をおいつめると新政権はもろく崩れ去る。
自分の前半世がむなしくなり世を捨てたくなった
北海道に行って農夫になりたい
自分は革命を成し遂げ死ぬべきだったのに死に場所を失ったばかりにこんな世の中を見ることになってしまった
と。
それに対して板垣退助は
この国家の危急をかえりみず、なんの面目があって地下の先輩同志にまみゆることができよう
と声を震わせていった。
山城屋和助事件はすさまじい
国家予算の1%を放蕩や長州閥への賄賂でつかってしまい、(山県有朋は捜査が及ぶ前に書類をすべて消滅させる)
山城屋の張本人であり元騎兵隊の志士野村は
おれが死ねば証拠もなくなる、と
長州奇兵隊の幹部として戊辰戦争の軍功とともとに死んでいればこのような恥はなかったのに
という辞世の句とともに、出頭した陸軍省の応接室で自ら香を焚いて短刀で腹を十字に割いて絶命した。
この小説の一番の盛り上がりは戦争場面ではなく西郷と大久保の征韓論での激突。
幼少期はあまりに貧しく、飯時にはちょこんと西郷家に居座り食をともにした兄弟に近い間柄。
幼なじみが協力して一国の二大権力者になってしまうという世界的にも珍しい二人。
内務卿時代も大久保が在籍中かどうかがすぐわかるぐらい、大久保在籍時は彼の威厳で省全体がしずまりかえっていた。
日本人が大久保から受ける圧倒的な威厳だけでなく、神戸監獄の嘱託医のアメリカ人ベリーも会っただけで
卿は自分が日本にきてはじめて遭遇したもっとも偉大で剛毅な人格であった
と感想を残している。
彼は地位にこだわらず、参議を辞め一つ下の卿に移り、ほぼ政府のすべてであった大蔵卿で実務として大蔵省の機構を固めるのに注力した。
事実上の首相であり、
この新国家はおれがつくった
という意識を自他共にもっていた。
さらに他にとっては大久保に恐怖したことは、この独裁権を利用して私腹を肥やそうという念がまったくなかった。
ひとびとは大久保の清廉さをおそれてあがめざるをえなかった。
家康を徳川東照公と呼び
大変革のあた直後はなによりも事態を整理し、守勢をしてゆくことが大事、という家康の言葉を重んじ
政治にとって「やりすぎ」ほどわるいものはない。「やりたらぬ」ほうがはるかにいい、と言った。
一利をおこすよりも一害をのぞくという消極的方法をとる、それが国家という生きものをあつかううえでもっとも大事、という考え。
外遊から帰った大久保にとっては、自分がいない間は何もしないでいることが一番であったのに、司法権を独立させたり留守番にしておいた井上馨を追い出すし、「自分の国家」を江藤新平という小僧が壊そうとしていると感じた。
ここからふたりの対決が表立ってはじまる。