水曜日, 11月 23, 2011
逆説の日本史(11)戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎
第一章 豊臣秀吉、その虚像と実像
・秀吉は右手の指が六本ある多指症であったこと
=>級資料にも残っている、触れないことも差別ではないか、という著者の意見
・朝鮮征伐という言葉に反応し言葉狩りをすること
=>現代であれば征伐などという言葉を使うのは慎むべきだが、歴史を語る上でその出来事が当時なんと呼ばれていたか、までをゆがめるのはおかしい
・羽柴秀吉が改姓を繰り返したことについて
=>木下は妻の名、もともと姓などもたぬ身分だった。
当時の風習として名を大事にするので姓は変えないのが常識。
秀吉は変えている。執着がなかったため。
羽柴は柴田勝家と丹羽長秀から取ったと一般に言われているが、筆頭の柴田と平の丹羽では序列も異なり逆に怒りを買うし、それ以外の重臣の受けもよくないことをするはずがない。
端柴稗吉 という保身を考えた名称から来たのではないか
・平、源になろうとして、最後に金をバラマキ藤原氏に入り関白となる。
第二章 織田つぶしの権謀術数
・明智光秀の本能寺の変は無計画であったから妙覚寺にいた信忠を囲んでいなかった。
しかし秀吉にとっての幸運で、単身でも逃げればよいのに逃げず自害した。(信長弟の有楽斎は三法師を連れ逃げている)
もし信忠が生きていれば、秀吉が毛利と劇的に和平を結んで中国返しをしても後継者騒動は起こりにくかった。
秀吉は光秀を討ってからも、第二の光秀にならぬよう三法師を立て、自分の権力の正当性を丁寧に確立していった。
このあたりは、今の日本を突然暴力で支配するグループが出てきたとしても国民は忠誠しないのと同じ。
・太閤記では賤ヶ岳の戦いで柴田勝家と佐久間盛政の連携が取れなかったことが敗因とある
これは後世の歴史の捏造。
権謀術数に長けた秀吉はいずれにせよ柴田勝家を落としていたが、賤ヶ岳での決定的な勝因は柴田側と思われていた前田利家が秀吉側についたこと。
歴史は勝者が書くので、この点は利家と秀吉の友情話としている。
・秀吉が天下人となれたのは実力もさることながらこの3つの幸運があったため
信長だけでなく信忠まで殺されたこと
信忠の子、三法師は生き残ったこと
次男信雄と三男信孝の仲が極めて悪かったこと
第三章 対決、徳川家康
信長の遺児信雄を家康が助け秀吉と対決する。
結束の硬い家康軍とは異なり、秀吉は欲でつないでいるものの最近まで同僚や上司であった人たちの集団。
平地での単純な戦争では家康に軍配が上がる、小牧長久手の戦いで秀吉は破れる。
そこからが秀吉の人たらしマジックが炸裂するところ。
信雄の領土を攻め信雄を自領に向かわせる、一旦信雄と家康を物理的に離して信雄と和平を結んでしまう。
秀吉以外の誰も、この関係にある人間と和平を結べるとすら考えない。
すでに自分も甚大な被害/出費がありながらも、戦の大義名分がなくなった家康は煮えくり返る腸を抑え
このたびの講和、天下のために誠にめでたい
とメッセージを送る。
無言で去ったのでは難癖をつけられる、また信雄に負い目を作り次回に利用する時にとっておく。
この点、家康もさすがすごいところ。
第四章 豊臣の平和
秀吉の政策と言えば、刀狩と検地がまず出るが、それよりも国内での私戦を禁止した惣無事令が骨太の方針。
信長->秀吉->家康をセットで考えると見えてくる事実がある。
秀吉は基本は信長の方針を踏襲した。家康はその失敗から学び機械のように過ちを繰り返さなかった。
第五章 太閤の外征
昭和のアジア侵略の歴史から、日本人は他国へ侵略することはすべて悪いこと、ごめんなさい、もうしません、おしりぺんぺん、的な所がある。
しかし、近代以前では他国へ攻め入ることは普通であったし、国内が統一された後は多くの歴史では海外侵略を計画する。
江戸時代は単に家康が秀吉が失敗した点は実行しなかっただけ。
例えば大量のユダヤ人が虐殺されたナチスの政策を回避することはできなかったのか?
戦争は悪であり最大限の努力をして避けるべきであるが、被害を最小限に抑えるのはヒトラーを倒すことだったのは事実。
1938年にヒトラーがベルサイユ条約を破り(明白な平和条約違反)オーストリアに侵攻した時にイギリスがヒトラー政権を打倒するべきだった。
もちろん第一次世界大戦で肉親を戦争で失い、戦争はもうイヤだ、絶対にしたくない、と思うのは当然だがそれを「絶対化」すればかえって弊害がある。
愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ
アレクサンダーやチンギス/フビライ、ヌルハチ/太宗のように、前近代においては異民族を侵略し、征服した人間こそ英雄となる。
勝てば官軍、というのであれば筋は通るが、学会や世論は基準もなく秀吉の侵略=悪、と決め悪だから失敗して当然だったと結論づけることが多い。
当時実践で鍛えあげられた30万人の軍隊と最新鋭の武器を持っていた唐入りは決して無謀ではなかった。
(元のチンギスハーンも清のヌルハチも1万人で中国全土を征服した)
ただし、圧倒的な人口比から、もし秀吉の唐入りが成功?したとしたら、清のように自国の文化から何からすべて中国化して結局中国に飲み込まれていた可能性が高い。大陸とつながっていないので清のように飲み込まれることはないかもしれないが確かにこの視点はうなずける。
フロイスが秀吉の唐入りは無謀、としたのは当時のキリスト教はインカやマヤを滅亡させても布教活動の一貫として当然で正しいこと、と考えていたため。キリストを信じない秀吉に加護があるはずがない、という視点。
当時スペインはポルトラルも制し、アジアにも手を伸ばしていた。フィリピンもスペインが征服した時王子の名フェリーペから名付けられた。
唐入りは秀吉はスペインとともに侵攻する計画もあった。
が、本国スペインの無敵艦隊がイギリスに破れるという事件があった。(この事件以後徐々に覇権はスペインからイギリスへ)
当時外国勢は、「日本は資源も少なく、戦争が続いていたため戦闘力が高い。制服を試みても実りが少ない」「逆に中国は資源が多く、平和が長く続いていたため兵も弱い」と考えていたため、日本を利用して中国を手中に収めようとしていた。
結局秀吉は単独で唐入りを行うことになった。
対馬大名宗氏の二枚舌で、朝鮮は宗氏の領土という誤情報が秀吉にはあったことも痛かった。
指揮官が現地に不在で、中国側のだまし停戦にひっかかり兵糧などを抑えられてしまったことも大きな敗因となる。
また、当時の李朝は悪政が続き庶民は不満をもっていた。全盛期の秀吉であればこの点をついて有利に進めることができたはず。
一度目の遠征は唐入りが目的だったものの誤情報が多く、戦闘よりも餓死や凍死で亡くなった数が多かった。
しかし二度目の遠征は朝鮮に危害を加えることが目的化してしまい、そもそもの目的に乏しかった。