月曜日, 10月 24, 2011
城塞 (上巻)
関ヶ原以降事実上の日本の覇者である将軍(他国で言うエンペラー)となった徳川家
秀吉の遺児秀頼が成人するまでの後見人かと期待する豊臣方も多かったが、家康は将軍職を息子秀忠に譲る
関ヶ原とは
北政所の見方では
豊臣とは秀吉一代の幻であったので時勢に任せ徳川に任せるべきであるという考え。子がなかったので諦めも早いとも言える。
一方、淀殿の見方では
秀頼という嫡男があり、秀吉の期待もあったことから豊臣家の永続を願う。
の「女二人の戦争」とおもしろおかしくするために言う人もいるが、さすがにそこまでではないもののとても無視できない役割をこの二人は果たす。
ただし淀殿は幼い頃に浅井家として、その後柴田家として戦争し親が自害させられるという経験を持つことから、武に対する人並み以上の嫌悪感がある。そのため豊臣家も武家棟梁としてではなく公卿化していきたいという意向であったと思われる。
もともと豊臣という姓自体が源平藤橘に加わる新たな公家として姓を受けている。
このあたりの淀殿が曖昧で、曖昧というか明確な意志と呼べるものではなく感情で動いていたのだろうけど、公卿という権力のない権威になるのであれば石高も八十万石程度からせいぜい数千石に減らさなければ道理に合わないのにどっちつかずにただ
徳川はそもそも豊臣の家臣のはずです
という考えのもと年月が大阪城で過ぎていた。
淀殿は秀頼のお袋様、という以外に公式な官がない。
そのため一歩大阪城に出れば、何の権威権力も持たないためずっと大阪城に篭る。
また秀頼も外に出れば亡き者にされる、と考え一歩も外に出さなかった。
1万人にも達する秀頼のために大阪城に居住する女性たちがすべて、秀頼という豊臣家の残り香のような存在が消えると豊臣家と共に滅びる、というところにもろさがある。
また、徳川家も下手に争いを仕掛けると、いくら時勢は徳川といえど、ヒロイズムで豊臣家に味方する家も多いためこちらもつなわたり的な状態だった。
毒殺とも言われている加藤清正や浅野幸長が亡き後に、70歳になっていた家康は
豊臣家を潰す
と決心し、謀略に謀略を重ね豊臣家/大阪城をまず内部分裂させ戦争をむこうから仕掛けさせる。
上巻ではその謀略、挑発が描かれる。
★★★★