月曜日, 10月 03, 2011
逆説の日本史〈7〉中世王権編―太平記と南北朝の謎
この巻もおもしろかった。
著者のまわしものみたいだけど、学生時代に歴史が嫌いだったけど好きになる。
司馬遼太郎さんでも充分おもしろくなるんだけど、例えば竜馬であったり西南戦争であったりテーマがあるのでそのテーマにおいてはおもしろくて引き込まれるんだけど、それも含めた全体の流れを読めるのはいいね!
■第一章 尊氏対後醍醐編
楠木正成と、後醍醐に味方した奥州兵(頼朝の奥州征伐依頼源氏が嫌い)たちが京で尊氏を破る。
河内の土豪出身の楠木正成は戦に優れていただけでなく戦以前の政治にも長けていたので後醍醐に「尊氏と和睦すべし」という案を献上する。
尊氏が負けた今だ、放っておけば必ず力を養ってくる、後醍醐に付いている新田義貞など切り捨てたほうがいい、と。
ここで幕府および武家を認めていれば、後醍醐の系統は後まで栄えたかもしれない。
が、後醍醐含め朝廷は却下。
敗北した尊氏は赤松円心の助言に従い九州で力を養い再起をかける。
正成の予言通り、九州、四国、中国地方で圧倒的な支持を得て、京都から敗走したわずか4ヶ月後に圧倒的大軍で京に攻め上がる。
これははるか下って幕末の大村益次郎の
「必ずや足利尊氏のごとき人物(西郷隆盛)が九州より反逆の狼煙を上げるだろう」
というたとえのもととなるできごと。
幕末以降の常識は三種の神器の関係で「南朝が正統」というのが定説であったため「反逆の狼煙」と言われてしまうがどう控えめに見ても時代を混乱させていたのは南北朝に国を分けた当時の天皇家なので尊氏および足利家もつらいところ。
尊氏はもともと後醍醐に反抗するつもりはなかったのに、後醍醐が武家を認めない以上争うしかない。
ここでも正成は残された必勝の戦略を献上する。
京を捨てる、大軍であるために兵糧を断つ、という策。が京は捨てれないとこれも却下。代わりに大軍に向かい700騎程度で戦を命じる。
戦前の日本で忠臣という点で美談を持って語られることの多かった楠木正成。
多分に創作であるものの弟とともに果てるときの逸話が後世に語られる。
「七生まで人間に生まれ(七度生まれ変わって)朝敵を滅ぼしたい」
■第二章 『太平記』に関する小論編
太平記は全40巻なのに22巻がないですよ。
冒頭で挙げたテーマに21巻までは沿ってるのに23~40までは怨霊がどうのとかテーマと関係なくなってますよ。
つまり22巻には「完」と書かれているので誰かが抜き取って違う作者(たち)が後半を都合よく書いてますよ。
という話。
■第三章 尊氏対直義編
兄尊氏は軍事の才、弟直義は政治の才があった、足利尊氏と弟の足利直義はニコイチのセット。
幕府を開いたのは頼朝、尊氏、家康と三人いる。
この三人を比較して、
尊氏はいい人過ぎたので室町幕府というのは混乱続きだった。
政治家には必要であれば「弟義経を殺したり」「形式では主従の関係にあった豊臣家を滅ぼしたり」という残虐とも取られる冷徹さも必要だ
と筆者は分析。
尊氏は何の欲もなく、
この世の栄華は夢のようなものです。
この尊氏に仏道への志を与え、来世をうまく過ごせるようにして下さい。
出家したいと思います。
この世の栄華に代えて来世の幸福を頂きたい。
この世の栄華は弟の直義に譲ります。
直義をお守り下さい。
と公言していたほど。ただこの無欲が混乱を招く。
直義は秩序のあった時代に戻したい、という政治を行った。
それは他の武家がだまっていない。
古代から中世にかけての日本史は
荘園領主と武士の土地争い
と要約できるほど。
せっかく後醍醐をだまらせたのに以前に戻るとは何事だ、この傀儡が、となる。
とくに高師直をはじめとする高一族は過激で
天皇や朝廷がなぜ必要なのか、どうしても必要なら木彫りの像でも置いておけ
と、進んで王朝の土地を奪っていく。
無秩序を恐れた直義は高師直を暗殺しようとするが失敗。
高一族をはじめとする豪族は尊氏と直義に、文官を排除し武家のための政治をしろ、と武力を持って迫る。
やむなく尊氏は直義を政治から外し尊氏嫡男の義詮に譲る。
直義が我が子のようにかわいがっていた直冬(尊氏の実子)も混乱の中で尊氏派の大名に終われて九州へと逃亡。
九州で力を蓄え巻き返し中国地方まで伸びてきた。
やむなく尊氏は征伐に乗り出す。この非常の決断に直冬を実子同然にかわいがってきた直義がついに切れる。
なんと南朝に通じて南朝を後ろ盾として京に攻め込む。
義詮は京を守れず尊氏と合流。
尊氏は直義と戦いたくないと、やさしさが問題となりうじうじしていた。
戦争なら尊氏が強いはずなのに戦いたくない気持ちがでて連戦連敗。
この兄弟げんかも何度か和議の機会がありながらもやはりどちらかの勢力が滅びるまで争わねばならず、直義は支持者が多い関東/鎌倉にたどる。
仲の良かった兄弟が争うことになり、尊氏もあきらめ弟を攻める決断をし最後は毒を盛って弟を殺害する。
しかし時すでに遅く全国が戦場となった。
■第四章 「日本国王」足利義満の野望篇
義詮が若く死んだため、わずか11歳で将軍職を継いだ義満。
もちろん政治が務まらないので管領と呼ばれる官房長官のような役職が就いた。
ただし成人してからは権力について理解し、自分の発言に力を持たせるために3,000人規模の近衛軍を置いた。
邸宅を室町に移したことから以後室町幕府と呼ばれる。
権力を強化して南北合一を遂げる、臣下の力で統一されたのではなく自然と合一したんだよ、というための字。
義満は権力を傘にきてやりたい放題、朝廷から人事権を取り、朝廷の妻たちとも多く寝取っていた。
上皇の妻までも寝取っていたといわれていたため、一休さんで有名な一休宗純は皇子であったが後の義満の死後に強引に皇位継承から外されている。
また、義満は天皇家を乗っ取ろうとしていた。
天皇という権威に対抗するため、当時の先進国である中国明に「日本国王」と認めてもらった。
父方は相当遡らなければ皇室とは言えないものの、母方の紀良子は天皇の母親と姉妹関係にあたるため皇位を狙っていた。
正確には自分の息子義嗣を天皇とし天皇家を乗っ取ろうとしていた。
義満がいかに権力をもっていたかを示す建造物として金閣寺が挙げられる。
一階が寝殿造、二階が武家造、三階が禅宗仏殿造、その上に鳳凰が乗るという奇妙な作り。
これは朝廷勢力の上に武家があり、その上に義満があり、聖天子が現れるときに翔ぶという鳳凰をあしらった。
義嗣を天皇の養子にする計画の途中で毒殺された。
義満だけが突出していくのをこのましく思わない他の武士も大勢いたが武士であれば武力で片付ける。
毒殺という点でも朝廷である可能性が高い。
また、義満の急死後に義満に太上天皇の尊号を送ろうとした点でも義満のたたりを恐れた朝廷である可能性が高い。
■第五章 「恐怖の魔王」足利義教編
室町幕府は鎌倉幕府と比べて基盤が脆弱だった。
鎌倉幕府は頼朝が武家の棟梁であり英雄である「源八幡太郎義家」の血がまだ残る源氏の嫡流だった。
北条氏が地方豪族がたくさんいる中頭ひとつ抜きん出たのは頼朝という神輿を担ぎだした。
征夷大将軍は源氏の本家がなる、という決まりも本家が滅んでしまったので、源氏の子孫がなる、と変化した。
つまりオレがなってもいいだろ、という家がいくつかあった。
そんな背景だから、嫡男を亡くしていた四代将軍の義持は病に倒れ、後継者を指名してくれ、と言われたときにも、指名したって他の豪族が納得しなければ一緒じゃないか、と明言しなかった。
指名してくれないのでやむなく候補者のなかから「くじ」で決めることとなった。
「くじ」というと「へ?」という印象があるが、くじは人が選んだのではなく神が選んだ、という意味を持つ。
くじとは対立しているとも思われる多数決ですら、投票という手段で神に選ばれた、と思う文化/文明/考え方も確かにあると納得する。
つまり現代の日本人が思うほど無責任でも不まじめでもない。
義持の死後にくじが開封された。選ばれたのは義持の弟で僧侶の義教。
還俗した義教は神に選ばれたと理解し、乱れた世を治めるためには権力が必要だと自分に権力を集める。
最後には権力集中から豪族赤松満祐に暗殺される。
信長と同じで神に選ばれた人間がそう簡単に死ぬわけがない、という油断があったと筆者は想像。
性格から死に方から殺害者のイニシャルまで信長に似た人物であったと筆者。
大久保利通もたしかにそういうところがあったと思う。
・比叡山延暦寺の武力制圧、焼き討ち=軍事力の解体
・関東で反幕府勢力だった足利持氏を制覇、滅亡
(関東は尊氏の次男の系統が納めており、坊主が将軍になるならオレがなる、と主張していた)
・守護大名の統制
・九州の鎮静
という、先代から残っていた課題を解決し、最大領土まで拡大した義教になぜか評価が低い。
筆者は信長や秀吉、家康も真似た有能な政治家であったと評価。
なぜ評価が低いのか、日本人は和を尊ぶため独裁でものごとを決めていく人物を許せないと筆者は想像。
信長もある時期までは評価が低かった。
義教とうまくいっていなかった赤松満祐が領土を召し上げられ、義教と男色関係にある赤松貞村に渡ってしまう、ならば義教を先に殺してしまおうと思い立ったという説もある。
義教は男色関係にある家来を気ままに優遇するとんでもない悪将軍だ、という評価。
男色関係は事実だとしてもまだ譲ってもいないのに義教を貶めるためのでっちあげであり、これが認められないのであれば、同じく信長と男色関係にありそれを公言していた前田利家に対する信長の対応もスケールが小さい。
本書には書かれていないが、日本人に限らず親から権力を相続した人には評価が低いのではないかと私見する。