月曜日, 10月 31, 2011

逆説の日本史〈9〉戦国野望編



第一章では沖縄の歴史
ヤマタイは中国古音でヤマドゥ、つまりヤマトと同じものであるのに対し
小野妹子が現代の屋久島を意味する夷邪玖(イヤク)は現代発音では異なってもリュウキュウと古代発音では同じであった。
中国に対抗してつけられた名前である日本がジッポンになりジパングになったのと経緯としては似ている。
沖縄の歴史に興味がある人はこの章だけを読むと知ったかぶりができてよいかもしれない。

第二章 海と倭寇の歴史
農民は土地に土着して自分の田畑から離れない
例えば足利尊氏は姓が源で苗字が足利なように
それに対して遊牧民族には定住地というものがない

昔は目に見えるモノを生産することだけが生産であったので、今でこそ世間的には憧れの対象もなっている役者は河原乞食と蔑まれ、一族からその職業が出れば森律子氏の弟のように自殺をすることもあった。
河原で上演されていたからという語源の説が言われているがそれ以前にも、「河原者」という言葉があった。
つまり国や地域社会にとっては定住しない人たちとは不気味なものであり、「田畑を耕す百姓」の反対語として「河原にいる乞食」と言葉が生まれた。
そもそも百姓という語源からして、百の姓つまり国民/人民の意味であったが農民こそ真の百姓(国民)だという強い概念から転化した。
農民政権の権力者としては定住していない/生産が見えにくいということは租税もしにくいということも関係していた。

そもそも非定住民が芸能以外に生業とできるものは何か?
これが商業の起こり
そもそも商とは中国の殷の一部族であった
殷が新興の周に滅ぼされたときに流浪の民となった、そこではじめたのが商業だった
つまり近代以前まで中国人も「商業」に対して賤しい職業という差別意識があった
青森で100円で手に入れたりんごを東京で120円で売るのはけしからん、悪いやつがだましとった、という考え方
西洋でもユダヤ人に対する差別は激しかったが、東洋でも最大国であった中国がこの意識であったのでさらに厳しかった
儒教に影響を朝鮮でも、「士農工商」と一応国民だけど最底辺ね、という扱い
日本は大きく影響は受けたものの、信長や秀吉に代表されるようにそこまで濃厚には影響されていない。
このあたりが日本がいち早く近代化できた原因の一つかもしれない。

家康は信長や秀吉を見習って商業に興味があったのに時代が下るほど老中松平定信の「商は詐なり」に代表されるような感情に支配されるようになった。田沼意次のように開国も視野に入れたような重商主義路線は叩き潰された。

西洋でのユダヤ人差別は、ユダヤ人同士の金銭の貸し借りは無利子なのにユダヤ人以外に貸すときには利息を取る、ような商業への無理解以上にも宗教的な意味が強い。
興奮したユダヤ人の人々がローマのピラト総督に「イエスを十字架にはりつけよ」と言った。
ユダヤ人はイエスをキリストとは認めないし、イエスが唱える新しい契約(新約)も信じない。
キリスト教から見るとユダヤ人はイエスを処刑に追いやったとんでもない民族となる。
この経緯も大きく、それ以来ユダヤ人が伝統的に得意とするのは金融、流通、芸能、法曹、マスコミ、という分野となる。

14〜15世紀 朝鮮半島沿岸で活動
16世紀 中国(明)大陸沿岸で活動
当初は壱岐対馬五島で活動を盛んにしていた日本の海賊であったが、朝鮮や明の国の正式文書として残っているように主体は時期に朝鮮や中国で蔑視/差別され制限されていた商業の人たちが海賊行為を行った。
昔は国家の警察機能などはあてにならなかったため商人は武装集団だった。
そのため同じく倭寇として分類されている秀吉の出兵とあわせて日本人の残虐性と分類するのは間違い。

第三章 戦国 この非日本的な時代
戦国時代が好き、という日本人が多い
これはもともとヤマトという発音があり大きな和と書いてヤマトと読ませるほど何よりも和を第一としてきた日本人には相容れない。
現代でも競争を否定する(競争とは敗者を生み、古代の人が一番恐れる怨恨につながるため)日本人が心のどこかで持つ憧れからくるものだろう。
朝倉敏景、北条早雲、そして大内氏/尼子氏という巨大勢力に埋もれる超弱小勢力から権謀術数を駆使し西日本を広く制覇した毛利元就に強く関心がもたれる。


第四章 武田信玄の限界
第五章 織田信長の野望
では、
信玄の寿命があと10年長かったら信長の天下はなかった
などと言われることもあるが、その武田信玄を例に出して
信長と天下を狙っていたと後世言われる他の大名とはどこが違ったのか?
を次章からの信長編に行く前に補助線を引いている。
私も筆者と同意見で、信玄の寿命が長かろうと京都に近かろうと、天才信長とそれを手本にした秀吉/家康にしか天下は取れなかったと思う。
軍事も強い、地元民は信玄と呼び捨てにせず今だに信玄公と呼ぶほど治水技術を始めとする政治もよかった。
何が足りなかったか?
それは
天下を取るという強い意志、であり、天下を取れる、という発想の転換であった。
今でこそ誰でも
ビジネスで成功する!
など思うことは自由。
だが、昔は身分の違いが大きくあり天下を統一するなど
尾張守護の斯波家の守護代を務めた織田家の、そのまた家老の家来の家柄で分不相応ワロスw
そんなこと考えて口にするだけで生意気だから潰してやんよ
という世界だった。
織田家よりも断然名門だった武田家でも思いもよらなかったと思われるし、出家名である信玄では既得権の最も甚だしい自社は潰せなかった。また武田二十四将も多くは身内/家族経営だった。
信長が目指していたのはシンプルな世の中、既得権益を潰して努力した奴が評価される世の中。
なぜ武田信玄の功績が高く評価され、以前まで織田信長の評価が高くなかったか。
それは評価をする時代背景に影響されると筆者は指摘。
家族経営の集大成であった江戸では
実力主義で抜擢した明智光秀に殺され、また抜擢した別の人物豊臣秀吉にお家を乗っ取られる信長って馬鹿なの?死ぬの?
という結果論で評価は高くなかった。
逆に家族経営を徹底した信玄は評価が高く、現代まで続く信玄への評価はその名残であろうと筆者は想像。

信長が目指す社会にするという目標のために二十代後半から着実に一手一手を打ち、そのための手段が天下布武であったり鉄砲隊の大量配置の手段だった。
桶狭間で今川を倒したら誰もが今川領に打って出て領地拡大すると思う所に打ったては
三河の松平家と提携
=>肥沃な今川領を取ると武田や北条と接するため争いになる、三河の家康で防がせておけ
=>対する信玄は単なる領地争いで川中島で上杉家と死闘を行なっている
美濃攻略
=>斎藤道三の弔いの意味もあったかどうかはさておき、京への道筋を作った
浅井家に妹を嫁がせる
=>京への道筋をつける、このあたりは本書に地図があるのでわかりやすい
比叡山焼き討ち
=>武装集団、利権集団、政治団体としての寺社の解体

政治、軍事、外交のすべてが天下一統にベクトルが向いている