水曜日, 1月 04, 2012

逆説の日本史〈12〉近世暁光編



この時代になってくると、司馬作品にも取り上げられることが多い時代なので新しい視点は多くなかった

関ヶ原で徳川に仕打ちを受けた長州と薩摩が幕末に江戸を倒した
が、その二藩の行動指針は関ヶ原を教訓としたため異なっている
長州=>絶対に徳川とは妥協しない、戦うなら徹底的にやる
薩摩=>また徳川と争うような事態が起こったら今度こそ情勢判断を誤らないように情報収集に努め、決して不利な状況で参戦することのないよう念には念を入れる

家康は歴史をよく学び、徳川家が安泰するように布石を多く残した
「吾妻鏡」が愛読書であった家康は、源氏が三代で滅びてしまったことから学び、百台以上も続いている「ライバル」天皇家に対する宮家のように「血のスペア」を徳川で参考にして御三家の尾張/紀伊/水戸を創った
ただし、中納言にしかなれない水戸は大納言になれる尾張や紀伊と比べると格が下がる
筆者は、水戸には他の二家にない重大な任務があったのではないかと想像する
戦国大名がどちらが勝つかわからない戦の時には家を残すために兄弟や父子で両方に分かれる
という戦略の一環で
もしなんらかの理由で徳川より天皇家が優勢になることがあれば(現に260年後に実現する)、その時は家を残すために水戸は朝廷に味方せよ
というミッションであったのではないか、という内容

そのため、水戸家は副将軍ではあっても将軍になってはいけない家系だった
が、吉宗が御三家以外にも尾張締め出しを目的とした御三卿を創設してしまったため、水戸家から一橋家に養子にいくという形で15代慶喜が誕生した

また、皇室にくさびをいれる意味でも婚姻関係は多かったが、15代の慶喜のみが生母が皇室
多くを皇室からめとっておきながら一人だけというのは説明がつきづらい
徳川家には皇室から来た女性には子を産ませないふいんきがあったのではないか

★★★★