水曜日, 3月 09, 2011
最後の将軍―徳川慶喜
最後の将軍、もちろん徳川慶喜
水戸藩という、徳川の中では
謀反の御家
と言われる藩の出身。
つまり有事の際は、徳川家ではなく天皇家につくよう代々伝えられていた。
徳川家でも
「一橋殿が将軍になったら徳川家は滅びる」
と言われ忌み嫌われていた
自分の周りに、徳川家にも味方がいないことを知っている慶喜は将軍になることを避け
家茂の後見職
という形で忠誠を尽くしていた
「後見職」という立場で家茂の為に京や江戸を奔走するものの、策が多かったため
「二心殿」
とあだ名され
将軍家に刃し独立をする
と考えられていた。
その家茂が急逝し、断り続けるものの
他に適任者がいない(この頃の将軍家は不自然なぐらい短命が多い)
という理由で徳川宗家を、その後征夷大将軍を受ける。
しかし、時代という波には逆らえず、また、日本は太古から明治まで
「天皇という玉を取った者が勝つ」
という歴史が繰り返されてきたため劣勢に立たされる。
玉という天皇(幼帝であったため実際は中山忠能)を獲ったのは薩摩。薩摩に取られたという事実で不利だった。
また、これは慶喜の性格によるものだが、
朝敵という賊名
後世の歴史に逆賊と残ること
をなんとしても避ける、という性格から、積極的に戦という策を用いなかった、ということもおとなしく大政奉還しその後の鳥羽伏見の戦いで江戸に引き上げる、という行動につながる。
また、静岡に移されてからは、ひたすら政治色を消すことに専念した。
相次いで倒れた西郷、大久保の死後20年以上経ってからも
一時的にも逆賊という賊名を受けたものですから
礼服がありませんので
と理由付けし、自らの旧邸である皇居に参内することも拒み続けた。
もう断る理由がなくなったので明治天皇と皇居の日本間で会ったときのこと
ざぶとんをあたえられてもそれも辞した
皇后が少女だった頃、慶喜は日本の支配者だったという身分で京都で会っていた。
歴史とは奇なもの。
翌日天皇が伊藤博文を呼び
「きのうは久しぶりで恩がえしをしたよ」「なにしろ慶喜のもっていた天下をこちらがうばったのだからな」
とのこと。
明治というそう遠くない時代に、今の天皇家からは想像もできないやんちゃな発言があったことにおもしろみも覚える。
晩年まで
「長州は最初から敵意を表していて裏もなく敵ながら好意をいだいている
が、薩摩は許せん
途中まで共に長州を討つなど従順を見せていながら、機を見て翻し徳川を葬った」
という気持ちを吐露していた
特に、稀代の策士、大久保利通や西郷隆盛には特別な思いをいだいていたようで、彼らは維新後に慶喜より以前に倒れるが、慶喜は晩年まで彼らの伝記が出版されれば必ず目を通していたという。
よく
慶喜公は家康の再来
と言われる。
歴代の徳川将軍では家康、吉宗と並ぶ能力者、という意味だが、確かに有能であり家康と同じく多趣味であった。
が、歴代将軍の中では能力者ではあったものの、やはり家康のような天才とは比べられない。
家康なら、もちろん山賊崩れから身を起こして数代しか立っていずハングリー精神もあった家康と比べるのも酷な話だが、この窮地でも間違いなく自分の有利なように展開したはず。