水曜日, 7月 06, 2011

逆説の日本史〈4〉中世鳴動編―ケガレ思想と差別の謎



続いて4巻

◯第一章 『古今和歌集』と六歌仙編
は特に感想なし..

◯第二章 良房と天皇家編 藤原摂関政治の興亡I
藤原氏の戦略は
天皇家に自分の娘を嫁がせて子を産ませ、天皇のおじいちゃん(外祖父)として実権を握る
というものだった。
が、これは男子が産まれないと成立しないためもろい戦略だった。
現に道長をピークに息子の頼通は天皇家に娘を嫁がせたものの子が出来ずに力が弱まっていく

◯第三章 『源氏物語』と菅原道真編 藤原摂関政治の興亡II
源氏物語の作者は藤原道長の侍女(あるいは男女の仲)であったのにも関わらずなぜ藤原氏のライバルにあたる源氏が藤原氏を押しのけて栄達していくというストーリーが許されたのか。許されたばかりではなく道長は紫式部のパトロンのように振舞ったのか。
これは道長の時代には決定的な権力差になっていた源氏に対する鎮魂の意味があったと筆者は推理する。
つまり同じく政治的に葬り去った道真のように、政治的に葬り去りかけている源氏に対する鎮魂であるのではないか、と推測。

◯第四章 「反逆者」平将門編 藤原摂関政治の興亡III
なぜ将門は乱を起こしたのか。
そもそも乱とは身分が下の人間が上の人間に対してしかけること。
武士は、その当時は辺境の地であった阪東(今の関東)を勢力図としていた。
平安の統治システムがすでに制度疲弊を起こしていて、武士が「一所懸命に」努力しても土地は藤原氏や朝廷の有利なシステムになっていたため阪東武士の親分的な存在であった将門が乱を起こした。
なぜ将門が「反乱者」「極悪人」と呼ばれているか。
それは戦いに負けたから。勝っていれば変革者/革命者として後世に名を残しただろうがそうはなれなかったから。

元々源氏と平氏の起こりはあまりに勢力を伸ばしてきた藤原氏に対して、天皇家が他の家を作り対抗しようとしたことによる。
天皇家は姓を持たないが、姓をつけて天皇家から臣籍降下させたのが賜姓源氏であり平氏。
なかでも武士で有名なのが清和天皇の時に起こった清和源氏。

◯第五章 院政と崇徳上皇編
平安時代も末期になると荒れる
その象徴が白河法皇
この法王は飛んでいて、自分の孫である鳥羽天皇の妻である藤原璋子との間に崇徳天皇という子を作ってしまう。
鳥羽天皇は、「あれは叔父だ」と気づいていたとのこと。
崇徳に罪はないものの、鳥羽としてはおもしろくないので崇徳の血が入っていない系統に継がれていく。
うとんじられる崇徳は保元の乱を起こし、結果破れて讃岐に流され軟禁される。
そのため崇徳が怨霊化したと考えられ
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」
と言ったと伝えられる。
これは後世、北条氏が天皇を島流しにする、などで現実のものとなる。
また、崇徳という字ももともと区別のつかない「祟る」であったと筆者は推測。

保元の乱のころから、もう平氏対源氏とか単純なものではなく、利害関係で平氏も源氏とともに戦っていた。
ここには記載がないが、一族でもどちらか一方に着くと負けたときに一家滅亡するのを免れるためと思われる。

なお、保元の乱の勝利者、後白河天皇は兄である崇徳を軟禁したばかりでなく
源為義の処刑を実の息子である源義朝に命じた。
孫の奥さんに子どもを生ませるという倫理欠如、それに伴い内戦が起きてしまったばかりでなく、世界にも類を見ない子に親を殺させる命令をさせる支配者。
平安時代が終わりに近付いたのは制度疲弊が一番の原因であるものの、天皇家がハチャメチャを続け、結果武家が政権を握るようになった一因でもある。
父殺しを命じられた源義朝の息子が源頼朝として鎌倉幕府を開く。

◯第六章 武士はなぜ生まれたのか編
これは桓武天皇が軍隊無くしちゃったのが一番の決定打
で、武士が藤原氏だったり公家連中に抑圧されていたため

◯第七章 平清盛と平氏政権編
平清盛は朝廷での立ち回りも貿易の上でも優れていた。
平清盛は白河法皇の隠し子という説もある。
ただ一点の問題で革命家になれなかった。
それは、この時代に中心となりつつあった「武士のための政治」を描けなかったこと。
逆に頼朝はそれを描いたため革命家になることができた。
清盛は武家出身として武士から期待されていた。
が、「武士のための政治」を描けなかった清盛は、自分の娘を入内させ平家を公家化させていった。
それは
結局新しい藤原氏が現れただけか
と武士達は失望を感じ、その失望が頼朝というミコシが担がれるエネルギーとなっていく。

ここで出てくる木曽義仲も(一時的にしか)勝者ではなかった(および京での振る舞いがよくなかった)ため悪とされる。
もともとは頼朝とはいとこにあたり源義仲であったことすらも霞んでしまう。
同様にもし頼朝が勝者でなかったら、伊豆頼朝

★★★★