金曜日, 7月 08, 2011
逆説の日本史〈5〉中世動乱編
◯第一章 源頼朝と北条一族編 鎌倉幕府の誕生I
源頼朝には奇跡が多い。
平治の乱で父源義朝が敗れたときに、14歳だった彼は本来殺されていたのに清盛の義母の温情で助けられ伊豆に流される。
そこで20年の間に武士がどんな不満をもっているのかを肌で感じる。
頼朝が平家に対抗するなど「富士山と背くらべをするようなものだ」と言われるような境遇から北条氏の力を得て関東を平定していく。
本書を通して読むと、確かに頼朝が一流の政治家であったことは疑いようがないが、それと同等かそれ以上に北条一族の野心が起こしたものだったと思われる。
実態として、北条時政は血統のよい頼朝を神輿として利用し関東の一大勢力を作り西は平家を睨む、という体制を企画し事実築いたものと思われる。
◯第二章 源義経と奥州藤原氏編 鎌倉幕府の誕生II
頼朝とは異なる境遇で、京の寺に入れられてからは奥州藤原氏を中心に各地を点々とする。
その時に盗賊のようなこともしつつ、後世の少人数での天才的な奇襲攻撃能力を身につけたのではないかと筆者は推測。
先に司馬遼太郎さんの義経と大村益次郎についての本を読んでいたので軍事天才というのがどういうものか予備知識はあった。
三国志の諸葛孔明とかを想像するとなんだか派手なイメージがあるけれど
「大軍といえども大将を落とされるともろい」
という性質を利用し、最小かつ最短の労力でいかに効果を上げるのが戦の天才。
司馬さんは大村益次郎を評して、
戦の天才は一民族で千年に2,3人出れば多いほう、それが古くは義経であり明治維新時では大村益次郎である
と言う。
たしかに、戦自体がそう多い社会活動でもないし、それに対して才能のある人間がたまたまその職についているというのも確率的に低い。
義経のおかげで
奥州藤原氏が秀衡の不慮の死をきっかけとして義経の首を取り頼朝に差し出した。
が、それがなくても、いくら義経を大将として鎌倉に対抗したとしても「武士のための政治」という基本ポリシーがない以上、鎌倉には勝てなかったと筆者は想像する。
◯第三章 執権北条一族の陰謀編 鎌倉幕府の誕生III
◯第四章 悲劇の将軍たち編 武家政治の確立I
鎌倉幕府といえば、
1192作ろう鎌倉幕府
が有名だけど、当時の人は
「幕府はじめました」
なんて考えてもいないし、幕府なんて言葉もなかった。
ただ江戸幕府と区別するために、鎌倉にあった政権という意味で鎌倉幕府、という。
区別する必要がなければ、京都朝廷なんて言い方はしない。
どこにも「幕府」なんて表札はないし、分かりやすい言い方をすると武力をもった集団が京都から認められた、ということ。
ヤクザが公認となったみたいなもの。
頼朝の最後はあまり記憶になかったけど
諸説あるものの「落馬して命を落とす」
だそう。
筆者はその近辺の情報がなく、子供の頃から馬に慣れ親しんできた頼朝が落馬して死ぬのは極めて不自然
という状況から北条氏に暗殺されたのではないかと推理する。
晩年に娘を天皇家に入内させようとしたり、革命家頼朝といえども結局藤原氏と同じ道を歩み公家化することにより武士の統制が取れなくなるため。
ここで北条氏はしたたか。
関東を手中にする「血筋」ではないために頼朝の息子を二代続けて象徴将軍としてたてる。
ただし朝廷と近くなり過ぎ、関東武士を統率できる力量がなかったためともに暗殺される。
その後は朝廷から象徴将軍を借りてきて執権として北条氏が実権を握る。
しかし北条政子といい、北条氏はすごい。
自分の家の反映のために子どもや孫も切り捨てるとは並じゃない。
◯第五章 北条泰時と御成敗式目 武家政治の確立II
承久の乱で後鳥羽上皇を島流しにするなど、一般的にはとんでもない一家のはず。
その承久の乱の時に大将として参加した北条泰時もその例外ではないはずなのに泰時の評判はすこぶるいい。
それは当時の憲法ではカバーできていないため問題や紛争がたびたび起こっていた状況を改善すべく、「御成敗式目」を作り大岡裁きの如く「道理」が通るように整備をしていったから。