月曜日, 11月 15, 2010

項羽と劉邦 (上)



以前三国志にはまった時によく、項羽と劉邦時代のことが故事として語られていた
当時から興味はあったがこのタイミングで手に取る

項羽:
楚という、中国の中心である中原の漢民族から見ると南蛮/非文明地域とも思われていた国の出身。
筆者の想像ではこの当時は楚の言葉もタイ語に近かったのではないか、と。
楚の名将、項燕の孫。伯父の項梁に育てられる。
楚の中では貴族であったためか項梁に文武を教えられる。
ただし項羽自身は武が向いていたためその方面が自然と伸びていく。

劉邦:
項羽よりは中原に近い地域で生まれる。
ただし、当時はよくあったそうだが、母親が湖畔でうたたねていた時に龍(といいつつ実態はチソピラ?)に襲われできた子、とのこと。田舎では当然だったそうだが名前がなく、「劉の家の一番目」や「末っ子」というような感じで、邦はお兄ちゃん/アニキという意味。アニキ兄貴と慕われて行くうちにするすると天下をとってしまった。父親/母親、ともに名前らしい名前はない。
(書いてある資料があっても、おとうさん/おかあさん、の意味の字)
劉邦が項羽より15歳程度歳上
途中から項梁の下で項羽と共に秦を倒すために戦う

秦の始皇帝が
・庶民たちには圧政だったので評判が悪い
・秦が、中原から見ると西の野蛮人という意識が根強く、「(西の外国との貿易で武装したから)するすると中国を統一したが、あれを倒せば次はオレが皇帝だ」程度にしか思われていなかった
ため、始皇帝の死後は各地で打倒秦の反乱軍が多くなった。
宦官が悪い方面に躍進し、本来の家督者であった長男を殺し、いのままに操れる息子を皇帝としたため衰退が加速していく

紀元前200年ぐらいなので納得であるが、この時代は単純
兵士も含めた人々は「飯を食わしてくれる人物」につき従う
数千/数万の人々の飯を食わせる能力がなければそのリーダは殺され、別のリーダを立てるか離散してしまう
いかに穀物庫のような場所を抑えるかが重要なポイントになっていた

戦術も発達していないので、戦闘は基本的には単純に数が多いほうが勝つ
ただし、「飯をくわせることができる人物」に問題があると兵が離散してしまうので一気に形勢が逆転する

また、この時代のリーダは外見も際立っていないといけない
フツメンでは他を引き寄せられず、項羽は当時としては相当な大男だと思われるが、185cmの立派な体躯
劉邦も体は大きく、またそれ以上に顔が龍のような特殊な顔を持っていた

自分も劉邦のような"魅力"を身につけたい
作者曰く、ただのチソピラで陽気に人をからかったりするぐらいしか能力がない
が、いつのまにか人は引き寄せられ、劉邦を盛り立てていく


項羽の「抗(あなうめ)」はすごい
楚からの防戦にあたる秦の名将との一件
「楚に敗れても罰を受ける。勝っても嫉妬を受け罰を受ける」
と、悩んだ秦の名将は「20万の兵士を救ってくれるなら」と投降してきた。
が、「20万の兵士たちが反乱するかもしれないし、食料も貴重だから」
と考え一瞬で「抗(あなうめ)」にして殺した。
(一か所に捕虜を集め、一方向だけ崖に通じる通り道を作り、夜にパニックを起こさせ、次々と押されるように20万が崖になだれこんだ)


ちなみに、本書に書かれているわけではないが基礎知識として
中国の歴史に興味ない方には、合コン時ですら「へー」で一蹴され盛り上がりもしない知識、下手をすると「なにこの人歴史語ってんの。よりによって中国?正直キモッ」と思われる知識だが
皇帝は中国を統一した人が名乗る称号、秦の始皇帝がつくり出した名称
各地にいる王を配下に置くのが皇帝、そのため日本では先進国であった中国文明にへりくだり「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおう」、つまり自分は皇帝の一配下にすぎません、という態度を取っていた。

ローマ帝国の最高権力者を皇帝と訳すのはベターでなく、あくまでエンペラーと訳すべき。

★★★★