月曜日, 9月 05, 2011

峠 (下巻)



司馬さんの作品の中ではいまいちかも、と読み進めていたが中巻途中からやはりおもしろい

徳川慶喜が尊皇思想の強い水戸藩の育ちであったため、後世に逆賊として語られることをひたすらおそれ、兵力で圧倒的に勝りながら大久保利通が偽造した錦の御旗を決定的に江戸まで逃げ帰った。
勢いに乗る「新政府」は
「徳川はすべての領地を新政府に差し出せ。その上で慶喜は一平民となれ」
と突きつけた。
慶喜は謹慎しただただ逆賊の汚名を怖れた。

ただ一部には
革命には前権力の血が必要である
と慶喜の首を求める声も多かった。

このような状態ではたすけるべき幕府が政権を京都に放り込んだのだからもう佐幕という思想は消滅したと言える。

そんな中でも、徳川に恩義があるため積極的に新政府を支持することを避けていた長岡藩
小藩ながらも一藩独立を目指し、武力を持って中立を志していた

山県有朋の一部隊が率いていた新政府軍に
徳川の無実を認めてくれ
どちらの側にもつくつもりはないので兵を退けてくれ
という内容の「嘆願書」を持参。

が、
金も兵も不足していたため「金か兵を出せ」という命令を断っていたため
会津軍の計略により長岡藩に疑いを持っていたため
新政府軍には聞き入れられず、
「戦争さえなければもっと長岡藩を強くできたのに」
と自分の夢が壊されながらもやむなく継之助率いる長岡藩は戦争に突入していった。

王陽明を師事し、百姓や商人を大切にする政治を志していたため、戦火に会い呆然とする民に
「ゆるしてくれ。おれが家老になったのはこういうつもりではなかった」と、いったり、
町人に対する責任を感じ
「気の毒であった
しかし御家はみなを捨てぬぞ。食い物がなくなれば本陣へ来よ
たとえ兵糧に事欠いても、一粒の米を
一粒の米を二つにくだき、三つにくだいても食わせるぞ。継之助がうけあうぞ」
とふれ回ったりなどした。

戊辰戦争や西南戦争を通しても上位に入る凄惨な戦場となり、新政府軍、長岡藩ともに甚大な被害。
また、いくつかの長岡藩の勝利は戊辰/西南を通しても劇的な勝利と言われている。

優勢にたつ局面もありながら、時勢に乗った新政府軍を相手に劣勢が続く。
奪われた長岡藩城を取り返す聖戦では、銃弾150発、兵糧である切餅3食分21個を持たせた兵たちが
餅は重すぎる、どうせ3日も生きていまいから10個でいい
と置いていくものも多かった。

我々は死ぬ、その善悪は後世に語られるだろう
ただ、昨日まで長年の恩を受けておきながら、明日にはその恩に弓を引くというのでは日本に武士がいなかったことになってしまう
と、道理、義、を尽くし、それでもかなわぬ場合に最後の武士としての死に際の美学として散っていった。

本書には書かれていないが、幕末を詳しく知る人にとっては河井継之助は優れた指導者として名を残しているものの、実際に戦火の被害にあった人たちからは、「最初から新政府軍に降伏しておけばよかったのだ。武士の美学という自己満足のために被害が甚大であった」と死後も憎まれ墓を襲われるなどの事件もあった。

★★★★★

追記:
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