日曜日, 4月 12, 2009
覇王の家〈上〉
以前から徳川家康という人物には興味をもっていた。
カエサルだったり家康だったり、その後何百年も続くようなシステムの礎を
築いた人物がどのように考えたか、などに心魅かれる傾向がある。
三河の勤勉/排他的な民族がその後の徳川300年の支配勢力であったことから
現代の日本人の原型が作られたと筆者は分析。
また、家康の性格を形作ったものとして
1.父/祖父を重臣の謀反のような形で若くして失っていること。
2.今川家/織田家に人質として青年期を過ごしたこと。
3.(織田家以外はそうであったようだが)徳川家とは酒井家をはじめとする
有力な豪族を束ねる中世型組織の長であったに過ぎないこと。
を挙げる
3.については、会社組織で例えると
織田家は信長100%株主かつ取締役も信長ひとり、あとの五人衆はせいぜい
部長クラスといったところ。
徳川家および他の大名と呼ばれる家は、比率は例であるが、徳川家45%、
酒井家20%、その他大久保党、本多党、石川党などが株主、役員も家康が
代表権をもつものの当然その他の家からも役員が構成されるという組織。
読み進めてもわからないのが、(おそらく筆者もわからないので断言していない)
信長は家康を利用価値がある一つの同名者として便利に使っていた。
が、家康が信長をここまで援助し続けたのはなぜであろうということ。
信長が天下一統(というより京を抑えた)を成せたのは家康の力による
ところが大きく、感謝を最大限示していた。
(家康に接待をしてもらったその接待返しが足らなかったという理由で
光秀をしかりとばしたり)
筆者は天下人となった信長についていけば、
家康の最大の関心事である三河およびその周辺の領土が守られる
と書かれていたが、信長が天下人になるはるか以前の弱小勢力であった
ときから、むしろ援助していては徳川家さえも危うくなるような状況下
においても、何度も死に直面しながらも支えたというところが謎である。
また、理由があったにせよ、信康と篠山を殺せと信長に命じられ、後年
まで後悔を口にするほど不本意ながら葬ったところも印象的。
結果論で言えば家康の眼力は正しく、信長は天下人となったわけだが
タラレバでいえば、家康が支援せず敵方についていれば信長の天下一統は
ならなかったのではないか。なぜそこまで盲目的に従っていったのだろう。
下巻に続く